結語
知の巨人ポール・ヴァレリーに比すべき厳密さへのこだわりを持ったクノーは、様々なものを小説に盛り込み、それを『はまむぎ』と名づけた。だが、そのすべての要素が読者に伝わったわけではなく、前述したジレンマから完全に抜け出すことはなかった。このジレンマは『はまむぎ』だけに限った話ではない。すべての小説に言えることである。今までは小説で表現しきれなかったものを表現しようとすれば、自然とそれ以前よりも複雑にならざるを得ない。
ここで、一つのことを想起しておきたい。それは、クノーが『はまむぎ』に哲学を導入する時、それを「口語訳」しようと心がけたことである。「口語訳」とは、分かりやすい言葉にするということ、つまり、説得力のある言葉を展開していくということである。厳密に正しい言葉であっても、伝わらなければ説得力があるとは言えないのだ。事実、クノーが『はまむぎ』に盛り込んだ様々な要素は、小説に説得力を持たせるためのものだったと言っても過言ではない。その要素の一つ一つが、この小説は読むに値するということを訴えかけているのだ。不幸にして、それは失敗に終わってしまっただけである。『はまむぎ』という小説の多様性ゆえに(それにひきかえ、1938年に登場したサルトルの『嘔吐』が文学史上で明らかに重要な地位を示していることは示唆的である)。
だが、結果的に『はまむぎ』が十分な説得力を持ち得なかったとはいえ、小説に多くの要素を盛り込むという方法論自体は間違っていない。そもそも、小説の本質な価値とはなんであろうか? それは未だもって曖昧なままである。それを見極めようという試みはなされ続けているが、有効な回答は得られていない。それならば、本質的に小説ではないもの(哲学、数学、言語学、社会学、歴史、etc.)を小説に盛り込むことによって、小説に価値付けすることは、もっとも有効な方法なのではないだろうか? そのような意味において、『はまむぎ』はもっとも小説らしい小説だと言えよう。
映画や漫画をはじめとした様々な娯楽が発展していく現代においては、小説だけにできることは減っている。人生の真理や深さならば、小説ではなくても表現できる。どうやら、小説の特権といえば、それがテクストのみで成り立っているということでしかないようだ。だが、その残されたわずかな領域においてのみ小説が展開されていくのならば、小説の未来は秘儀的でグロテスクなものになってしまうだろう。
したがって、現代における『はまむぎ』の重要性を指摘することができる。それは説得力を志向した重層的な構造である。『はまむぎ』は早産に終わってしまった一つの悲劇だが、現在の小説が目指すべき一つの極を示し続けているのである。
最後に、7-7からの引用で本論を締めくくりたい。エティエンヌの美しい妻アルベルトが家を出る時、息子のテオに語りかける言葉である。
なんて人生かしら、テオ、おまえには想像もつかないのよ。おまえは何も知らないの。この戦争は、おまえには理解できないわ。お父さんも、おまえには理解できないわ。テオ、ここに残りなさい、この家に。そして毎日リセに通いなさい。良く勉強しなさい。ギリシャ語、ラテン語、数学、歴史、物理、体育、化学を学ぶんですよ。全部きちんと学びなさい、テオ。でも私は、出ていきます。(p.232)