このブログでも何度か言及している水村美苗さんの「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」(以下、本書)ですが、Web上での反響は凄まじく、一種の「国語論」として受け止められている感があります。
僕も多くの方と同じように、この本を興味深く読んだのですが、「自分がそうである」という以下の二点からこの本がとってもタイムリーだったので、ごく個人的な観点から感想を述べたいと思っていました。
- 日本語でしか書かない純文学の作家であること
- Web業界に身を置いていること
で、おりよく新潮1月号に水村美苗氏と「Web進化論」の梅田望夫氏の対談が載っていたので、本書とあわせてまとめてみます。
価格¥243
発行新潮社
発売日2008 年 12 月 6 日
文学における日本語の問題
とりもなおさず、本書は文学者である水村美苗さんの書いたものです。そういう意味では、以下に挙げる第三章までに本書の独自性がもっとも顕著であるといえるでしょう。
- アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々
- パリでの話
- 地球のあちこちで<外の言葉>で書いていた人々
文学における国語の問題というのは、古くて新しいものであり、とりわけ近代文学というものは常に国語と寄添っていました。
近年ノーベル文学賞の受賞者の多くを亡命した書き手や被植民地の書き手が占めていることからもわかるように、幾つかの国語、つまり支配的言語(英語・フランス語・ドイツ語)を中心として成り立ってきた近代文学を揺るがすような文学が最近の流行です。ノーベル章の候補になるような世界文学の権勢は以下のような感じになっているんじゃないでしょうか。ちょっとズレがあるかもしれません。
第二次大戦以前(フランス語)→ ~1970年(英語) → ~1990年(南米のスペイン語) → ~2000年(クレオール)
とはいえ、これはノーベル賞がローカルなところへも脚光を当てようとしているからそうなっているだけの話であり、世間一般はそうではありません。
対談でも述べられているジュンパ・ラヒリの例を挙げるまでもなく、ヒンディー語などというローカルな国語で書くよりは、英語というグローバルな国語で書いた方が成功を手にする確率は高いのが現状です。
たとえば、この間芥川賞を受賞した楊逸さんやリービ・秀雄さんのように、日本語で書くことを選ぶ非日本人も少なからずいます。また、多和田葉子さんのように、日本語以外で書くことができるグローバルな日本人作家もいます。そういう意味で、日本語というのはまだまだ大きな地位を占めています。
しかし、カズオ・イシグロさんのことを考えてみます。日本で生まれ、日本語を捨てた作家が、世界的な名声を博している。日本語で書く作家の未来は少し薄暗いものになります。が、その闇は近代文学に差す影でしかないのです。僕はまだ29歳の作家なので、その薄暗い未来の向こう側にあるものについて考えたいと思います。
インターネットが文学に与える問題
言語帝国主義的競争において英語が圧倒的な勝利を収めようとしているのは当面の事実として、それをIT技術が後押ししているというもことまた、悲しいかな事実です。
これはプログラミング言語が英語をベースにしたパソコンへの命令文であるという仕様に基づいています。ざっと挙げただけでも、以下のような問題があるのではないでしょうか。
- プログラミング言語習得が大変
- アルファベットとは文字コードが違う
- 情報資源の総数が少ない
- 上記すべてに起因する、開発コストの増大
要するに、技術は遅れて入ってくるし、がんばってもショボいものしか作れない可能性が高くなります。また、対談で挙げられていた「公共という概念の欠如」(P.348)もあるでしょう。たとえば、どんなプログラミング言語にもユーザグループというものがあるのですが、だいたい英語です。日本語の会もありますが、あまり活発ではありません。ちょっと込み入った問題になると、「本家で聞け」「英吾のマニュアル読め」という展開になりがちです。人も集まりにくいのでしょう。
こういうことを考えると、小飼弾氏がこんなことを言うのもうなずけます。
日本語を護る最良の方法は、何か。
日本語以外の言語、すなわち英語以外の言語も共に護る、という方法である。
なぜ私がJcodeでは満足できなかったかといえば、「日本語だけ護る」のでは日本語を護り切れなかったからだ。だから、英語が第一言語であった故 Nick Ing-Simmons から Encode を「引き取った」。プログラマーとしては数段劣る私がそれに踏み切ったのは、彼より強い危機感を持っていたからに他ならない。そして Encode を引き取るということは、日本語のみならず、英語以外の言語を全て引き取ることだった。
そして Perl 5.8 が Release された。私はここでやっと枕を高くして眠れるようになったのだ。
404 Blog Not Found「今世紀最重要の一冊 – 書評 – 日本語が亡びるとき」
小飼さんはPerlという色んなところで使われているプログラミング言語が色んな言語をサポートできるようにしたというらしいんですが、プログラマーとしては実に正しいことだと思います。あと、思ったことをきちんとした形にするのも偉いです。
とまあ、IT業界では日本語があることが開発者にとってネックになります。いっそのこと、全部英語でやってしまった方が楽なぐらいなので、若いプログラマーはキャリア・アップのために日本語を捨てる人も増えて行くでしょう。このスピードは文学よりもずっと早いはずです。ここら辺の経緯は、以下の本に詳しいです。
価格¥2,200
順位1,513,330位
著西垣 通, ジョナサン ルイス
発行岩波書店
発売日2001 年 3 月 26 日
上記のような点を考えると、水村さんや梅田さんが絶望感を感じるのはむべなるかな、と感じます。僕もWeb業界にしかいなかったら、もっと熱心に英語にコミットしていたでしょう。
が、本書を読んでやや違和感を覚えるのは、次の二点です。
- 近代文学という大文字の文学はまだ有効なのか
- ITのいいところを文学も利用していくべきじゃないか
IT技術がどうしようもなく文学に影響を与えるのは仕方のないこととして、それを対岸から押し寄せる波と捉えるのではなく、文学の側からも波を送れるのではないか。僕はそう考えています。
今後やったらいいと思うこと
というわけで、僕は日本の国語教育に物申すのではなく、自分にできることをコツコツやっていこうと思います。できることは今のところ、二つ。ITの利用と近代文学の喪の作業です。
ITの利用
これは破滅派ですでに実践していることですが、もっとラジカルに推し進めて行きたいと思ってます。ただし、この先数年間は、流通・製本などのバックエンドに注力しようかと考えています。
当然、技術的に精通するための勉強も欠かせません。純文学に資本が投入されるのは恐らく最後の方なので、自分たちでやるしかありません。あるいは、技術力を持った人を説得する必要があります。
幾つかの有名なリトル・プレスがもはやミニコミとは呼べないぐらいに大きくなっているのは周知の事実ですが(ex.フリーターズフリー)、既存の流通ルートに載るというよりは、贅肉のない筋肉質かつスマートな運営団体として、文芸の存続を目指して行きます。
ともすると、後ろ向きに捉えられるかもしれません。ローカルな現地語へと日本語文学を後退させていいのか、と。が、これは事業としての文芸を問うモデルケースです。対談では「高速道路」(P.347)と表現されていた出版モデルが断固として存在する以上、爆発的な成功は見込めませんが、あるとき、シーソーが傾くようにして、大成功が訪れると思います。この点、さしさわりがあるので詳しくは書きません。
とにかく、現状の出版社がWebに大きくシフトすることはまだ考えづらいですが、あと20年も経てば環境は激変しているだろうことは確かです。
近代文学の喪の作業
水村さんの言っている文学というのは、夏目漱石を筆頭にする近代文学のことであります。夏目漱石が国語の教科書に載る載らないでワーワー世間が騒ぐことからもわかるように、大文字の文学はまだ生きています。
水村さんが批判する80年代以降の文学というのは、大文字の文学という文脈から切断している(ように見える)文学のことだと思います。が、若い作家が大文字の文学のことを何も考えていないかというと、そうでもないわけです(ただ単にそういう人が有名でないということもありますが)。
これは「俺こそがまさにそうだ!」と言っているのではなく、そういう人も少しはいるということです。大文字の文学がまだ滅びたわけではなく、とはいえ楽観視もできない現状では、次のような文学的態度がありえます。
- ものすごい頑張れば、近代文学のスネをかじって大文字の文学者となることもまだできます。少なくとも、自分が死ぬまでの間ぐらいは。
- ものすごいがんばれば、大文字の文学からまったく自由に書くこともできます。それで名声を博することもできますし、もしかしたらお金持ちにもなれます。少なくとも、自分が死ぬくらいまでの間は。
上記のどちらの関わり方も否定はしません。別にやったらいいと思います。が、僕は個人的に「近代文学をきちんと葬り去ること」が必要なのではないかと思っています。
この思いは破滅派で発表した方舟謝肉祭にも込めました。国家称揚と手を携え、日本語の地位向上を目指す過酷な言語帝国主義的レースに参加するのは、たしかに男子一生の仕事に足るかもしれません。が、多重言語者でもなく、言語的な葛藤を持っていない僕がそのレースに参加しても、大した成果も得られないでしょうし、喜ぶ人も少ないでしょう。
というわけで、これから訪れるだろう日本語文学の暗い未来に備え、僕は近代文学の喪の作業を続けたいと思います。具体的になにをやるかは、まとまってません。「文学は終わった!」とか叫んでもしょうがないし。