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クノー『はまむぎ』読解―その多層構造とジレンマ―

高橋文樹 高橋文樹

この投稿は 16年 前に公開されました。いまではもう無効になった内容を含んでいるかもしれないことをご了承ください。

第3章 『はまむぎ』の読み方/読まれ方

前章までに述べてきたように、『はまむぎ』は中心がなく、多用な意味が混在している小説であり、そのように意図して作られている。
本章では、本論の1章と2章を踏まえた上で、『はまむぎ』の読み方を二つ、例として挙げる。そして、その二つの例を比較することによって、「小説を読むという行為」のある側面を浮かび上がらせたい。なお、その際には、のちにクノーが設立することになるウリポ(潜在的文学工房、Ouvroir de Litérature Potentielle)の一員であるイタロ・カルヴィーノが、クノーについて語った次の言葉を出発点とする――

『つねにもっとも楽でリラックスした姿勢で、まるで仲間どうしでカードゲームでもするように、こちらと肩を並べてくれ、たえずくつろぐようにと誘いかけてくれるこの作家は、しかし、ほんとうのところは、永遠に探り尽くせない地平を背後に秘めていて、それが意味するもの、前提となるものが決して底をつくことがない人物なのだ』14

1)表層に留まる読み

仮にフランス文学に精通していない読者がいて、面白い小説を求めて『はまむぎ』を読んだとしたら、おそらく、「反レアリスム的態度」と「新フランス語」に注目するに違いない。小説を読むに当たってストーリーが真っ先に注目の的となるのは周知の事実であり、フランス語を読むことのできる人であれば、ksaharriveraitという語を見て戸惑わない者はいない。生まれてはじめて小説を読んだのでなければ、この二つのしかけには簡単に「解読」できるのだ。では、その具体的なプロセスを見てみたい。

まず、人間として生きている以上、物語を知らずに生きるのは不可能である。聞き語りでも、絵本でも、漫画でも、映画でもいい、とにかく何らかの物語を知っているはずだ。読者は物語が進むにつれて増えていく情報から、話の筋がどのように展開していき、どのような結果に終わるのか、という予測を立てることを、ほとんど習慣的に行っている(そこに焦点を当てたのが「ミステリー」と呼ばれるジャンルである)。
しかし、普通の読者は自分の立てた予測と実際の結果がぴったりと一致することも、あまりにも異なることも好まない。できるならば、納得のいく範囲で逸脱して終わって欲しいと思っているのである。「いい意味で裏切られた」という発言は、実は「まったく裏切られなかった」ということを意味しているのだ(本当に裏切られたら失望するだろう)。
同様に、『はまむぎ』においてその期待にそむかない仕掛けが施されている。まるでそれが凡庸な物語であるかのように情報を積み重ねていき、「転倒」を用意しているのである。何度も繰り返すが、『はまむぎ』7章のフランス対エトルリア戦争は壮大な「転倒」なのだ。もちろん、これを「転倒」として認識するためには、少なくともフランスという国が現存し、その一方でエトルリア人が今はもう消滅した古代民族だということを知っていなければならない。だが、それは(特にフランスの義務教育を終えたものにとって)大して困難な条件ではないだろう。つまり、この「転倒」はそれほど専門的な教育や技術の習得なくして「解読」できる要素なのだ。

また、フランス語を日常生活に支障のない程度に使いこなせる者であれば、新フランス語も簡単に理解できるだろう。まず、≪ksaharriverait≫という語を見て戸惑いを覚える。そして、それを読んでみて、≪que ça arriverait≫という語と音の面で一致することに気付く。ただし、そこに言語改革の意図が潜んでいるということにまで思いは至らないだろう。新フランス語を読んだ時の珍奇な印象は、7-13においてミシズ・オーリニとなったクロシュ夫人がチビ、喪、屋根、カード、乳房、のこぎり、セックス、牡蛎、卵、レコード(p.245)と数える時の印象と同じなのだ。つまり、正規のフランス語表記を「転倒」させた言葉遊びとして「解読」されるのである。

このように、「反レアリスム的態度」と新フランス語は共に常識の「転倒」であるということを「解読」するためには、ごく少数の知的エリートにならなくてもよいのである。この点に関しては、例え『はまむぎ』がカフェ・ドゥ・マゴ賞を取った文学作品だからといって、肩を強張らせる必要はまったくない。それは簡単に「解読」することのできる、表層的な意味層なのだ。

では「解読」された「転倒」は、どのような性質によって効力を発揮するのだろうか?その問いには、ほとんど直感をもって答えることができる。そんなものに興味を示さないという気難しい読者も多少は存在するだろうが、「転倒」に遊戯性を見出す読者はそれ以上の数存在するだろう。強いて「転倒」の遊戯性を定義付けるとすれば、ロジェ・カイヨワの遊びの定義15を身体的なレヴェルから拡張して、イリンクス(眩暈)の遊戯と分類することができる。事実、「転倒」の遊戯性と登場人物の愛くるしさが頂点に達する『地下鉄のザジ』が今日のクノーの名声をかろうじて支えている(ごく一部のレンタルビデオ店において)ことからも、「転倒」が簡単に「解読」できる要素だということはわかる。

2)深層まで至ろうとする読み

「転倒」がたやすく「解読」できるものだとしても、それだけで満足しない読者は存在するだろう。彼/彼女は『はまむぎ』の背後に潜む広大な「百科全書的知」の平野へと探検に乗り出す欲望に駆られるはずだ。だが、前述したように、『はまむぎ』の多用な意味層をすべて「解読」するためには膨大な労力が必要となる。

ここで、本論1章(2)で取り上げた「登場人物達の哲学的思索」を例に取ってみよう。それは確かに平易な言語によって語られているが、一見単なる懐疑論であり、そこに意味を見出すことは難しい。『はまむぎ』のテクストの中に置いても、哲学が優位的な要素となることはなく、どちらかと言えば、蛇足の感を否めない。小説の中に哲学が導入されていることが正当化されるためには、哲学それ自体に価値がなくてはならないのだ。つまり、『はまむぎ』の哲学は、『はまむぎ』内において意味を持つというよりも、『はまむぎ』外のテクストと関わることによって意味を持つのだ。実際、デカルトの『方法序説』あるいはヘーゲルの『精神現象学』との比較や、クノーの抱えていた「二重の制限」への参照なくして、『はまむぎ』の哲学に積極的な価値を持たせることができるだろうか?

また、同様のことが、本論1章(4)で取り上げた「様々なナラシオンの使用」についても言える。ナラシオンの列挙に意味を見出すためには、文学史上でナラシオンと認められたものを知っていなければならない。つまり、ナラシオンの百科全書的列挙に意味を見出すためには、文学史に対する厳密な知識が要求されるのだ。

たった二つの例だけでも簡単に察することができるように、『はまむぎ』を「解読」し尽くすことは困難なのである。そこには「転倒」のような遊戯性はあまり感じられない。だが、それもまた遊戯なのである。またしてもカイヨワの定義を借用すれば、アゴン(競争)の遊戯である。そのモチベーションとなるのは、「解読」によって得られるものなのだ。それは、幾何学的な美しさを持つ数学であり、より合理的な構造を目指す言語学であり、絶対的な懐疑主義である哲学である。こういったほとんど学究的な「解読」に心惹かれる者が、その競争に参加するのだ。

このように、『はまむぎ』の読みを「解読」の競争として捉えるとすれば、必然的に多くを「解読」できる人は少なく、少ししか「解読」できない人は多いという一つのヒエラルキーが形成されることを容易に想像することができよう。そのように優劣を伴う階層ができるところに、競争が遊戯として成り立つ理由がある。つまり、厳密な知識をもって、『はまむぎ』の背後に広がる圧倒的な知の平野を踏破し尽くすという、終わりの見えない競争に「転倒」とは別の遊戯性があるのだ。

3)表層と深層の間で

さて、上述した二つの読みはそれぞれ異なった遊戯性を持っているため、必然的にそれを楽しむための条件も違ってくる。「表層に留まる読み」は一般的な知識だけで楽しむことができ、その一方で、「深層まで至ろうとする読み」は専門的かつ広範な知識を要求される。では、その二つはどのような関係になっているのだろうか? 同時に楽しむことは不可能なのだろうか? それが可能だとしたら、どのような条件によるのだろうか?

まずは、深層まで至る読みを競争として捉えた場合に限定して話を進めたい。あらゆる要素を「解読」するという競争が前提となるその中では、「転倒」も解読される一つの要素となっている。百科全書的知の平野を探索する過程で、その「転倒」を発見することは実に容易なことである。換言すれば、『はまむぎ』から少しでも多くを「解読」しようとした時、「転倒」をその過程で「解読」することは大いにありえることなのだ。このように考えた時、二つの読みを関係付ける線の一つが明らかになる。それは、「表層に留まる読み」が「深層まで至ろうとする読み」の副次的なものだという解釈である。なぜなら、より多くを「解読」しようとすれば、「表層に留まる読み」は明らかに「解読」不足であり、失敗として考え得るからだ。

しかし、この解釈は一面的なものでしかない。それは「解読」を『はまむぎ』を読む際の義務として考えた場合の解釈である。小説の読みはそのようにしてのみ行われるものではないのだ。実際、『はまむぎ』には「解読」されなければ意味が分からない要素が多く存在しているが、それをすべて「解読」するなどという知的パズルに付き合う読者は少数である。では、「表層に留まる読み」を選んだ読者は、いまだ「解読」されずに残っている要素をどのようなものとして捉えているのだろうか?

表層に留まる読み」を選択した読者が、それ以上「解読」しようとしない理由として考えられるのは、そのような読者が気晴らしを求めているということにつきるだろう。何か気晴らしを見つけたいと思っている読者にとって、膨大な知識を必要とする「解読」作業は苦痛なのだ。できることならば、自分の持つ知識だけで「解読」を行いたいと考える。そのような人の目に、例えば「様々なナラシオンの使用」や「登場人物達の哲学的思索」は、積極的な価値を持つものとして映らない。それどころか、読書の時間をいたずらに引き伸ばす蛇足として映るのだ。つまり、「解読」の競争に荷担する者にとって目的ですらあった要素が、「表層に留まる読み」を選択した読者にとっては、読書を不快なものにし、あくびを誘発するのだ。そのもっとも適当な例を下に挙げよう。

ごらんなさい、私は地面にいます。ですから、私は大きな秘密を一つ持っています。私はあなたに教えてあげようと努めてはいますが、その性質をはっきりと述べることは不可能だとあなたに告白せざるを得ないようです。まったく不可能なのです。ですが、それは民族の失墜や国家の解体とある種の関係を持っています。私はとてつもない秘密を持つ人物を知っています。(p.181)

これは5-13におけるピエールの独白だが、ある指摘16によれば、書き言葉の死をアレゴリックに予言したものであるという。だが、本文中でそのことについては一度も直接的に言及されない。クノーが新フランス語に託した意味を知ってはじめて、このセクションは意味を持つと言って間違いないだろう。このように、容易には「解読」できない要素が「表層に留まる読み」を選択した読者にとって害をなすことがあるのだ。

以上のように、『はまむぎ』の各要素はかならずしも手に手を取り合って仲良く共存しているわけではない。結果的に、『はまむぎ』を読むという行為は、上述した二つの極に分かれていく。そこに盛り込まれたものを多く「解読」することができる人間は、ごくわずかなのだ。そして、そのわずかな人間に眩暈と競争の両方をもたらすこの作品は、表層的な意味しか汲み取ることのできない人間にとって、「面白いところもあるが、よくわからない部分が多い」といった印象を抱かせる。
一見すると遊戯性に満ちたこの作品にも、そのようなジレンマが存在しているのだ。

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