目次
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序
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『はまむぎ』の四つの特徴
- 反レアリスム的態度
- 登場人物達の哲学的思索
- 新フランス語
- 様々なナラシオンの使用
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レーモン・クノーの個人的な理由
- レアリスムの向こう側へ
- 哲学の口語訳
- 小説による言語改革
- ナラシオンの百科全書
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『はまむぎ』の読み方/読まれ方
- 表層に留まる読み
- 深層に至ろうとする読み
- 表層と深層の間で
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結語
書誌
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レーモン・クノー(Queneau, Raymond)の著作
- Le Chiendent, Édition publiée sous la direction d’Henri Godard,Gallimard, ≪Bibliothèque de la Pl?iade≫, vol.Ⅱ,2002.
- Technique du roman, Édition publiée sous la direction d’Henri Godard,Gallimard, ≪Bibliothèque de la Pléiade≫, vol.Ⅱ, 2002.
- 「はまむぎ」、白水社、2001(滝田文彦訳).
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レーモン・クノーに関する研究書
- Dobo,Frank: [La petite histoire…du≪chiendent≫], in Raymond Queneau L’Herne,No.29, 1999, pp.324-327.
岩松正洋、「読みの慣習と『最小離脱』」、『岡山大学文学部紀要』、28号、1997、pp.145‐157. - 小幌谷友二、「クノーの『ネオ・フランセ(Néo-Français)』について」、『中大仏文研究』、30号、1998、pp.65-88。
- 中里まき子、「クノー『地下鉄のザジ』論」、『仏語仏文学研究』、23号、2001、pp.75-98.
- Dobo,Frank: [La petite histoire…du≪chiendent≫], in Raymond Queneau L’Herne,No.29, 1999, pp.324-327.
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一般的な参考書
- イタロ・カルヴィーノ、『なぜ古典を読むのか』、みすず書房、1997(須賀敦子訳)。
- デカルト、『方法序説』、岩波文庫、1997(谷川多佳子訳)。
- テリー・イーグルトン、『新版文学とは何か』、岩波書店、1997(大橋洋一訳)。
- ピエール・マシュレ、『文学生産の哲学―サドからフーコーまで―』、藤原書店、1994(小倉孝誠訳)
- ヘーゲル、『歴史哲学講義(上・下)』、岩波文庫、1994(長谷川宏訳)。
- ヘーゲル、『精神現象学(上・下)』、平凡社ライブラリー、1997(樫山欽四郎訳)。
- ロジェ・カイヨワ、『遊びと人間』、講談社学術文庫、1990(多田道太郎・塚崎幹夫共訳)。
序
レーモン・クノーの処女小説『はまむぎ』1とは一体何なのか。小説を読んだ後にこのような問いを発するのは、この作品に限っては、まったく愚かなことではない。そこにはあらゆる要素が詰め込まれており、一体自分は何を読んだのか、容易には理解できないのだ。あらすじですら、すでにカオスである。ためしに、物語を要約してみよう。
平凡な銀行家のエティエンヌ・マルセルは帽子屋のショーウィンドウでおもちゃのアヒルを見かけたことから、存在の認識についての考察を始める。そんなある日、金持ちの遊興青年ピエール・ル・グランと知り合い、彼の中に認識のヒントを見出そうとする。さらに、郊外からパリへと向かう電車の中から見た「フリット」という看板に目を止め、そのカフェへと向かう。そこで彼はカフェの主人ドミニク・ベロテルから、自分の息子テオがある男に殺されようとしているのを知る。その男は、ドミニクの弟サチュルナンの宿に下宿している、失業中の音楽家ナルサンスであり、彼はエティエンヌの妻アルベルトに恋をしたため、テオと喧嘩になる。結局殺人は未遂に終わるが、テオは行方不明になる。その後、テオは見つかるが、その際、ドミニクの息子クロヴィスエがティエンヌの言葉を聞き間違え、叔母のクロシュ夫人にある報告をする――カフェの常連客である古物屋のトープ爺さんは大変な財産を持っていて、それを青い扉の裏に隠しているらしい。クロシュはある計画を立てる。カフェの女中エルネスティーヌをトープと結婚させよう。その財産奪取計画に、エティエンヌとピエール、ナルサンスとサチュルナンの二組が加わる。最終的に、ナルサンス達が青い扉を勝ち取るが、結局財産など存在しないことが分かる。そして、戦争が起きる……。
あらすじにすればこのようになるが、それで小説のすべてを明らかにしたことにはならない。エピソードが時にあらすじよりも重要になることがあるのだ。事実、この小説は何か一つのものを中心に展開していくのではなく、エピソードの集積によって成り立っている。それは『はまむぎ』という嘲弄的なタイトル2からもわかる(ちなみに、「はまむぎ」という言葉は作中一度も出てこない――ちょうど、ザジが一度も地下鉄に乗らないように)。このように混沌とした様相を呈する小説に対して、一体どのような読みを試みればいいのだろうか?
その答えの一つとして、それぞれの意味層をゆっくり「解読」し、すべての意味を明らかにしていくという方法がある。あとで明らかにするように、『はまむぎ』はいくつかのテクストを前提としている。それらのテクストを参照することで、「解読」はある程度可能になる。それはかなりストイックな作業であり、『はまむぎ』それ自体よりもはるかに多くのテクストを必要とする。
もう一つの答えは、まるで『はまむぎ』が閉じられたテクストでもあるかのようにして読むということである。現実的に、ほとんどの読者は、小説を「解読」するために他のテクストを参照するということをしない。もちろん、「解読」はするだろうが、あくまで自分の「百科全書」つまり、すでに自分が知っていることを参照して「解読」するだけである。そのような態度は、まさにテクストを閉じられたものとして捉える態度に他ならない。
このように、大きく分けて二つの読みがあるわけだが、どちらの読みを『はまむぎ』に対して行っても、特に問題はないだろう。したがって、本論では、まず、二つの読みを許容する『はまむぎ』という小説の特徴を明らかにし、続いて、そのような特徴がいかにして盛り込まれたのか、さらに、『はまむぎ』はどのようにして読まれ得るか、ということについて考察を繰り広げたい。そして、最終的には『はまむぎ』という小説を現代に読むことに意味はあるのか、という問いに対する一つの答えを出したい。