第1章 『はまむぎ』の四つの特徴
様々な要素が混在する『はまむぎ』を語るに当たって、まずはその要素を四つの特徴にまとめることから始めたい。もちろん、それらはしっかりと独立したものにはならないだろう。なぜなら、それぞれの要素が絡み合って、『はまむぎ』という一つのカオスを形成しているからだ。したがって、ここで挙げる四つの特徴はすべて便宜的なものであることを忘れてはならない。本章では、その便宜的な特徴に分けることによって、『はまむぎ』の特異性について論証したい。
1)反レアリスム的態度
まず、広い意味でのレアリスムの小説とは、もちろん、現実に照らし合わせて起こり得ると思えるような、「もっともらしさ」を持つ小説のことである。例えば、我々は19世紀のパリに「ゴリオ爺さん」なる人物が実在しなかったからといって、激怒したりはしない。そのような人物が存在し得ると納得できればいいのである。これは19世紀のフランスに限った話ではなく、現代の日本にも深く根付いている、読みの慣習である。
さて、『はまむぎ』を冒頭から読んでいくと、このような読みの慣習から逸脱しない筋が展開されているのが分かる。日常的な範囲で繰り広げられる事件は、我々の常識から大きく反れることはない。このように「もっともらしい」展開ならば、その中の登場人物の一人が突然タイムスリップしてしまったり、男と女の精神が入れ替わったりすることはまずないだろう。そう考えながら、読者は『はまむぎ』を読んでいくのである。ところが、このような「もっともらしさ」が突然放棄されてしまう瞬間がある。その代表的な例を下に挙げよう。3‐5〔※第3章第5セクションの略。以下同様〕において、二人の水夫、イポリット・アズュールとイヴ・ル・トルテックの喧嘩を銀行員エティエンヌ・マルセルと金持ちの青年ピエール・ル・グランが描写している場面である。
「肝臓を磨り潰しあっている」
「顔を血まみれにしあっている」
「皮を剥ぎあっている」
「手足を切断しあっている」
「細かく砕きあっている」
「恐ろしい戦いだ!」(p.79)
我々の一般的常識から言えば、このような凄まじい喧嘩をした人間は死ななければならないが、二人の水夫はこのあとの場面でもしっかりと生きている。発言者であるエティエンヌとピエールが嘘をついていると強引に考えることもできなくはないが、それはまた別の困惑を生むことになる。読者は登場人物達が何の断りもなく嘘をつくことに慣れていないのだ。
また、次に挙げる例では、もっと大きな逸脱が生じている。7‐2において、ピエールがR海岸で読んだ新聞の記事である。これは、「もっともらしさ」が完全に捨て去られる瞬間と言えよう。
フランスとエトルリア
11月11日水曜日
相互に宣戦布告の予定(p.222)
この後、作中では実際に戦争が始まるが、1章から6章までの展開では、作品内の時代設定は20世紀前半のフランスである。もちろん、年代は一度も明記されていないから、それは『はまむぎ』を読み進むに当たって抱いた推量に過ぎない。だが、エトルリア人は、前9世紀に現在で言うイタリアに住んでいた民族であるから、20世紀前半はおろか、新聞という文化と同時代に存在したことすらない。エトルリア人をイタリア人のメタファーとして見ることもできなくはないが、エトルリアはともかくとして、フランスまでいつのまにか王制になっており、とりわけ前者はインド=ヨーロッパ言語を話さないことになっているので3、ここはそのような強引な解釈をするよりも、素直に意図的なアナクロニズムと考えるべきであろう4。
上に挙げた二つの例のように、『はまむぎ』においては、我々の現実的知識や「読み」の常識に露骨に抵触することが書かれている。それはもちろん、意図的にそうしたのであって、クノーが無知だったからではない。そういった「もっともらしさ」の排除、つまり「反レアリスム的態度」は、『はまむぎ』の特徴の一つである。
2) 登場人物達の哲学的思索
認識に関する哲学は『はまむぎ』全体を通じている一つのテーマとなっている。どんな文学作品でも、広義の哲学(ex. 人生哲学)を引き出すことは可能だが、『はまむぎ』では狭義の哲学が直接的に語られている。それは存在の認識に関わる哲学である。その中心的な役割を担うのは、平凡な銀行員のエティエンヌである。彼は帽子屋のショーウィンドウでおもちゃのアヒルを見た時から、存在の認識に対して疑問を抱き始めるが、金持ちの青年ピエール・ル・グランと出会うことによって、その哲学を発展させていこうとする。下に具体的な例を挙げよう。
[…]俺はここ最近随分と変わった 今ならそれがわかる そうだ 世界はそう見えるものとは違うんだ 少なくとも毎日同じ物を見ていたらもう何も見えなくなる でも毎日同じ生活を送る奴らがいる 俺は実際のところ存在していなかった すべては小さなアヒルから始まったんだ それ以前には考えたりしなかった 要するに俺は存在していなかった 少なくとも俺はもう憶えていない[…] (p.65)
このようにして、エティエンヌは、専門用語などを用いずに、存在とその認識について思索する。部分的に引用したが、2‐12はすべてエティエンヌの内的独白になっており、存在と認識に関わる考察だけで全91セクション中の一つを占めている。そして、哲学的思索はエティエンヌのみにとどまらず、彼が他の登場人物に質問していくという形で作品全体に広がりを見せる。これと同様に、ほぼ哲学的言説だけで成り立っているセクションは、3‐13、4‐2、5‐10、6‐13とかなり多い。アレゴリックに、あるいは、部分的に書かれているテクストを含めれば、その総量は全体のかなりの部分を占めると言って良いだろう。したがって、この哲学的思索が『はまむぎ』の大きな特徴の一つということがわかる。
3)新フランス語
新フランス語は『はまむぎ』に限らず、クノーの諸作品において目立つ特徴で、おもにフランス語の表記と発音の一致を目指したものである。では、その一例を見てみたい。
ⅰ C’est bien possible, mais c’est pas ? moi ksaharriverait. (p.87)
= que ça arriverait
(それはかなり有り得ます、でも、それが起こるのは私にじゃありませんよ。)
等号の右辺は下線部をフランス語表記に直したものである。この試みの意図を問うことは本章の目的ではないので、それについては次章に譲ることにする。ともかく、このようにして表記と発音の一致が新フランス語の主眼なのだが、それは言語遊戯的な側面をも持っている。もう一つ例を挙げ、その点について比較検討してみたい。
ⅱ Ilila, ilila, la voulumtuer ! (p.195)
= Il, il a, il, il a, il a voulu me tuer !
(あ、あい、あ、あい、いつは俺殺そうとした!)
さて、ⅰにおいては、表記と発音の一致が見られる。つまり、一音節を発するのに多くの文字が使用され、時にはまったく読まれない文字すら存在するフランス語を、より経済的な表記法で記したのがⅰなのである。
その一方で、ⅱにおいては、新フランス語の意図の拡張が見られる。これは6‐5で、ありもしない財宝を狙うクロシュ夫人がルネール神父に扮装して古物屋を訪問してきた場面における、トープ爺さんの発言である。殺されるのではないかという恐怖に怯えるトープ爺さんは、当然のことながら、どもっている。したがって、その「どもり」を表現したのが□ⅱということになるのである。だが、「どもり」はそもそも言語の例外的な働き、いわば「エラー」であって、それを表記する方法が明確にあるわけではない。
つまり、ⅰが不経済なフランス語の表記法を覆そうとしたものであるのに対し、ⅱは正しい表記法で書かれたテクストでは表現しきれなかった音を表現しようとしたものなのだ。
だが、新フランス語はあくまで一部に留まっている。全テクストが新フランス語で書かれているわけではなく、登場人物の発言の一部がそう表記されているにすぎないのだ。したがって、新フランス語は、一つの体系を備えた言語というよりも、クノーの作品において頻繁に見られる言葉遊びのうち、一つの特徴的なものと考えてよさそうだ。
4)様々なナラシオンの使用
『はまむぎ』は様々な技法が使用されている。「小説に関する技法とは何なのか?」という問いも可能だが、それは本論の主旨を大きく逸脱してしまうので、ここでは主にナラシオン(語り方)に限定して論を進めたい。もちろん、それでも「一体ナラシオンとは何なのか?」という問いもまた可能になるのだが、それ以上は踏み込まない。ここで意味するナラシオンとは、単に「人称のみを問題にするもの」ではなく、「語り手がそのように語る状況を問題にするもの」ということにする。
さて、クノーは各セクションごとに一つのナラシオンを限定的に使用することを目指した。クノーが実際にどのような技法を使用したかについて言及している部分を『小説の技法』から引用する。
純粋に叙事体の物語、話された言葉によって区切られた物語、純粋会話(演劇の表現に近い)、『私』による内的独白、報告された独白(あたかも作者が登場人物のもっとも小さな思考にまで入りこんでいるかのように)あるいは表明された独白(同様に演劇的なもう一つの方法)、書簡(それだけですべて構成されている著名な小説がある)、ジュルナル(日記ではなく、勘定書や日刊紙の切り抜き)、夢の物語(この分野がこれほど堕落し得ることを留保して使用しなければならない)5。
これらのナラシオンはクノー独自のものではなく、既存の文学によってすでに達成されていた。例えばジッドの『贋金使い』のように、幾つかのナラシオンを使い分ける小説も『はまむぎ』以前に存在している。だが、このように多くのナラシオンを一つの小説の中で使い分けた例は、決して多くないだろう。そのような、様々なナラシオンの使用も『はまむぎ』の大きな特徴の一つと言ってよさそうだ。
以上、(1)から(4)に渡って『はまむぎ』の特徴的な要素を挙げたが、これですべてを列挙し尽くしたわけではない。ディドロの『運命論者ジャック』を思わせるようなメタ・フィクション的言説6、押韻小説の試み7や、全セクション数である91を算出した数学的方法8、循環小説の試み9など、例を挙げればきりがない。そこでは色々なことが起きているのである。
だが、本章の目的は『はまむぎ』を「解読」し尽くすことではなく、雑然とした印象を与える『はまむぎ』という小説を四つの大きな特徴に分類することなのだ。そうすることによって、『はまむぎ』のもっとも特徴らしい特徴である「中心の不在」を忘れることなく、『はまむぎ』という作品を語ることができるのである。
次章では、このようにして纏め上げた四つの特徴のそれぞれに隠された意図を探ることによって、そこに隠されたクノーの真意に少しでも近づいてみたい。