自宅に派遣されるマッサージというのが性的なサービスを含んでいないのかどうかは利用したことのない僕にはわからないのですが、『実践FUZOKU入門』という本によると、性感マッサージというのがそもそも性的サービスを必ず含んでいるわけではないそうで、そうした駆け引きなども含めて「フェザータッチ」「全裸待機」などの用語が生まれたそうです。「全裸待機」は楽しみにしすぎている様を表すネットスラングですが、もともとは性感マッサージなどで「自分は完全に性的なサービスを期待している」ということを意思表示するために、渡される紙パンツを履かずに待機することをさしていたそうですね。
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なので、そういうもんだと申し込んだのに思っていたのと違って逆上したのかなとか邪推したのですが、まあ、事情を何も知らない僕があれこれ忖度してもセカンド・レイプにしかならないので、実際の事件についての価値判断はしませんが、今回、俳優さんが逮捕されたことにより、公開予定の作品がお蔵入りになったり、過去作品の配信がとりやめになったりしているそうです。
で、これに関しては色々と考え方があると思うのですよ。
- 作品と俳優は無縁である。よって、すべて公開すべき。(表現の自由)
- 逮捕者が出ている作品が出回るのはおかしい。規制すべき。(表現規制)
- 被害者は加害者の出演する作品が世の中に出回ることで何重にも傷つくかもしれないので規制すべき。(被害者保護)
- このような事件があった以上、作品として売れ行きは望めないので公開停止もやむなし。(経済合理主義)
僕としては基本的に表現の自由が尊重されるべきだとは思うのですが、経済合理主義と表現の自由派の折衷案として「公開したかったら無料で公開すれば?」という意見を持っています。
俳優もそうですが、ミュージシャンやスポーツ選手のような見られる職業は成果物に対する属人性がすごく強いです。ミュージシャンのライブをミサになぞらえた聖飢魔IIは、ある意味でその本質を見抜いていたわけですね。「カリスマ」というのはまさに宗教用語ですし。
そうした人を惹きつける力がある職業に関しては、「ファンが陶酔してくれる」という訴求力がある一方、悪い面も注目されやすいのは確か。人気俳優のキャスティングによってヒットする映画もあれば、犯罪者が出ることによってその逆方向の効果も当然あるでしょう。麻薬とかなら、まあ本人が勝手にダメになるだけのことが多いので再起ははかりやすいですが(もちろん、他人を巻き込んでる可能性は大いにあります)、被害者がいるようなケースだと「それで金儲けすんの?」という市民感情が巻き起こるのはいたしかたない、とぼくは冷淡にも思ってしまいますね。
僕が小説を特に好きな点として、ある程度時間が経っていると、そうしたノイズ(とあえて表現します)がなくなって、わりとフラットな態度で作品に向きあえることが多いからです。フランツ・カフカが何かで書いていましたが、文学作品はある程度時間が経つと「家に帰って煤を落とした土曜日の煙突掃除夫」のように、その作品だけに向き合えるんですよね。
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ジャン・ジュネという作家はけっこうな前科者ですが、読んでいても特段「悪いやつだな!」という色眼鏡なしに読めましたからね。
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で、演者が全面に出るようなジャンルというのは、わりと演者に対する興味が作品の「良さ」と不可分なので、「悪いやつ」だったら感動も薄れちゃうよなぁという印象です。
なので、表現規制うんぬんというより、公開したかったら無料で公開すればよいし、お金とるなら全部寄付金にしたりとか、そういう方向に舵を切ればよいんじゃないでしょうか。アメリカとかだと、犯罪者が本を出したりすると、印税が全部被害者に入る法律サムの息子法がありますよね。終わり。