いまごく巷で話題沸騰の『ピダハン』をついに読みました。さすが「良書のみすず書房」ですねー。ちょうど僕がいま気になっていることとリンクしていたのであっという間に読み終えました。おもしろかったです。
ピダハンとは
ネタバレ注意と前置きしつつ紹介すると、ピダハンというのはアマゾン河流域に住む部族で、かなり変わった言語を話します。著者は30年に渡ってピダハンを研究し、その研究成果を一般向けに書いたのがこの本というわけですね。
著者のダンさんによれば、ピダハンの言語はどの語族にも属さない独立言語だそうです。語族というのは、日本語がウラル=アルタイ語族で中国語がインド=ヨーロッパ語族(だっけ?)とか、ハム語族とセム語族がそもそもいてとか、研究者によって分類は異なるらしいですが、大雑把に「言語の属するグループ」を意味します。普通は同じ語族だったら翻訳がある程度は可能なので、「これはポルトガル語でいうところの◯◯だな」という具合に類推が可能なのですが、独立言語の場合はそれができないので大変苦労したとのこと。
ピダハン語の特異な点をまとめるとこんな感じでした。
- 数量詞がない
- 1とか2とかの数を表す言葉が無いので、常に相対的な多少だけで形容するそうです。0を発見したのはインド人ですが、数量詞がまったくないのはかなり珍しいとか。
- 創造神話がない
- 普通、「神は6日間働いて日曜日は休んだ」「男と女が木の下で出会っていきなり合体」などの創造神話があるのですが、ピダハンにはないそうです。これも珍しいんだそうな。
- 再帰(リカージョン)がない
- 言語には再帰という概念があって、「俺が昨日食べたパンの残りを母が全部食べた」という具合にある文が他の文を含むことができ、そのためにある程度複雑な情報も伝えることができるのですが、ピダハン語にはこれがないというのが著者の主張です。
- 直接的な体験しか語られない
- ピダハンは直接的体験しか語らないし、伝聞形式の話を重要だと考えないようです。このせいで著者はキリスト教の伝道に失敗します。「なんでおまえは会ったこともないイエスというかいう奴の話を伝えるんだ?」と思われちゃうんですね。これは言語構造ではなく、言語コミュニケーションの手法としてそうなっているということです。
他にも色々変わった点があって、そういう部分を読んでいるのも面白いです。キリスト教伝道師である著者が最後に無神論になるところなんかは文化人類学的な読み物としても感動的です。
普遍文法批判
さて、この人は学者なので、30年のピダハン研究の結果、チョムスキーの普遍文法を批判的に捉えるようになったようです。普遍文法というのは、ざっくり言うと「人間には生まれながらに言語機能が備わっているので、全ての言語に共通した普遍文法があるはず」という仮説です。プラトンの真善美に似た演繹的な考え方ですね。
著者はピダハンと接するうちに、この考えに違和感を抱くようになっていきます。たとえばピダハンには右とか左とかの方向を意味する言葉がなくて、「その手は下流にある」とか河との位置関係で示すそうです。これは河流域に生きるピダハンにとって河がどれほど重要であるかという文化的な理由からそうなっていると考えられます。つまり、文化的な制約から言語が成り立っている部分が大きいんじゃないか、普遍文法は言語のなりたちのすべてを説明し得ないんじゃないか、というわけですね(もちろん、普遍文法とそれを基礎にした生成文法すべてを否定してはいません)
感想
普遍文法は機械が言葉を作り出すための基礎理論ですが、その例外としてピダハン語みたいなのがあるというのは面白いですね。実際の自然言語処理的な分野では、計算機のパフォーマンスとの兼ね合いでなんとか落としどころを見つけるということが行われていると思うので、普遍文法に例外があるかもしれないからってやることは変わらないかもしれませんが。
チョムスキーの生成文法(普遍文法を基礎とした理論)って昔は「難しくてオラわがんね」という感じだったのですが、最近は自然言語処理の勉強をしているということもあるので、また読んでみようかなと思いました。
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