毎度落選率が40%ぐらいでビクビクさせられる文学フリマだけど、見事当選確定。破滅派三号を発刊して売りさばくことが決まりました。スケジュールも発表済みです。
ところで毎度思うのは、本を出すのは本当に大変だということ。
本を出すというのは、机の前で難しい顔をして、突然霊感が降りて、素晴らしい作品ができて、それが本になるというような簡単なことではない。
本当に色んな人たちがそこに携わって本というものは世に出ているんだと感じる。
でも、それがこの先の時代も求められることかどうかはわからない。たとえば、こんな話がある。まだフロッピーディスクもなかった時代、パソコンにプログラムを認識させるためには、以下の人が必要だった。
- 上流工程(こんなプログラムを作ろうと考える人)
- プログラマー(上流工程を実現するプログラムを書く人)
- パンチャー(プログラムをパソコンに認識させるためのパンチカード〔紙に穴が開いたヤツ〕を作る人。カート・ヴォネガットの小説「プレイヤー・ピアノ」なんかに出てくる)
- パソコン
でも、今、パンチャーは存在しない。こうなっているわけだ。
- 上流工程
- プログラマー
- パソコン
すべての人が、いつまでも必要なわけじゃない。その誰かがいなくてもよかったというわけじゃなくて、ただ単に、その人は今、パンチャーたらんとするよりも、プログラマーでたらんとすればいいだけの話だ。自分の技術に固執する人間というのは、あまり美しいものじゃない。
仮に、文芸誌を出すということがビジネスとして成り立たなくなって、もう趣味でしかやらないものになった世界を想像すると、「書く」から「本になる」までを誰でもできるようにしておくことは必要だと痛感する。
今は本にするためにはInDesignやQuarkというソフトを使えなくてはいけないんだけれど、それは別に本質的なものではない。もちろん、DTPデザイナーの存在を軽んじる意味ではなく、「書く」という行為に限定して、という意味でのことに過ぎない。
いつか、誰でも自分が思ったことを書物にできる世界が来ると思う。それも、そんなに優劣のないクオリティ(モノとしての)で。そいう世界は、沢山の選択肢がありすぎる面倒な世界のようにも思えるけれど、その頃には皆、今とは違った方法で賢くなっていて、上手に選ぶだろう。選びとることが面倒なのは、今が過渡期だからじゃないだろうか。
中世のヨーロッパでは、「諳記」こそが最大の知性だった。いまでこそアインシュタインのような「ひらめき」が天才の証左とされているけれども、まだ「書物」というものが存在せず、パピルスで書かれた世界で一つだけの「書」が貴重なものだった時代、「諳記」できることは天才の最低条件だった。だって、たまたま訪れた大学にその「神学大全」があったとして、それを覚えないことには、なんの思考もできなかったから。「あれ? あれなんて言うんだっけ?」なんてことが起きた時点で、考えたことはすべて無駄になってしまう。そういう時代があった。
トマス・アクィナスも、カンタベリーのアンセルムスも、「諳記」の天才だった。そうやって尊ばれた「諳記」が、いまでは硬直した知性のように言われている。そう遠くない未来、「ひらめく」ことよりも、「選ぶ」ことの方が天才に求められる時代が来るだろう。「ひらめき」さえも検索の対象になっている時代だ。
そうやって訪れる世界が、本当に文学にとって――とりわけ、近代文学にとって――幸せなものかどうかはわからない。でも、近代文学が文学のすべてではない。今まであったものに別れを告げることが、今まであったものに対する最高の礼儀のような気がする。
あんまりまとまりがないけれど、とりあえず感慨を述べてみた。文学フリマに参加していると、色んなことが思い浮かぶなあ。