実はここ数日、文芸以外のとある芸術的なジャンルのお仕事を依頼されていたのですが、あまりにも話が大きくなってしまい、僕では無名すぎてダメということでポシャってしまいました。地球を救うためのZ戦士を選んでいたら僕だけチャオズだったという悲しいお話です。
まあ、それは過ぎたことなのでもういいのですが、そのお仕事の舞台というのが中国だったのですね。中国といえばパクリ大国というのは皆さんご存知の通り。良いモノがあったら即パクり、それを非難されると「いいものがあったら真似するのは当たり前」と言ってはばからないらしい、ということを見聞した人も多いでしょう。海賊版については周知の通り。
コンテンツを提供する側でも半ば匙を投げているところがあるそんな国でオリジナリティを発揮するにはどうしたらいいかと考えていたのですが、それがそもそも間違った考えだったのではないかということを、お仕事がポシャってから思うようになりました。
というのも、つい先日『剽窃の弁明』という本を読み終えたのですが、その中で興味深い節に出会ったのです。
価格¥2,640
順位1,040,815位
著ジャン=リュック エニグ
原名Hennig,Jean‐Luc
翻訳直哉, 尾河
発行現代思潮新社
発売日2002 年 2 月 1 日
このように、剽窃にたいする厳しい非難にはひとつの歴史があり、その歴史は本質的に書店をめぐる歴史だったのである。中略事実、剽窃が専門的な仕事の対象になり始めたのは、そして、それまで不正でないどころか望ましいものでさえあった盗みを人が訴えるようになったのは、十九世紀初頭からのことにすぎない。ジャン=リュック・エニグ著・尾河直哉訳『剽窃の弁明』現代思潮新社, 2002年, p.101
剽窃を成功させるためには剽窃するだけでよいなどとだれが言ったのか? めくら滅法に木を拾ってくればヴァイオリンになるとでもいのうだろうか? たとえそれがカエデ材であっても。〈剽窃自体が問題ではない。すべてはそこからなにを作るかに懸かっている〉。規則はこれだけ。だから、剽窃者の関心は際だつことにある。前掲書, p.111
「書くとは、淫売をすることです。色目を使いい、自らの体を売ることです」とヴィオレット・ルデュックは言っていた。今日、いくにんかの作家たちのナルシスティックな思い上がりは滑稽に見えないだろうか? かつて、自由に作品の流通する時代があった。歴史上おそらく最も長い時代だったろう。作品を公開しているいじょう、与られているも同然、配られているも同じことと考えられていたのだ。前掲書, p.147
出版というものが大きな産業になるとともに、書店側の圧力からオリジナリティが尊重されるようになったというのはある意味頷けるところがあります。
3, 4年前だったと思うのですが、朝日新聞の特集で中国の出版がいま激アツだということを読んだ覚えがあります。スクラップしたので家のどこかにあるとは思うのですが…… とにかく、長い間政府による統制が続いていた中国では、出版が斜陽産業となりつつある日本とは異なり、出版市場は成長産業だそうです。これを逆に考えると、「中国には近代的出版産業は存在していなかったのでオリジナリティを尊重する文化はまだそもそも生まれていない」ということになるのではないかと。これはおそらく出版に限らず、利益追求型メディアが存在することが著作権の生まれる条件なのでしょう。
現在の日本を考えてみると、この「利益追求型メディア」が少しずつ弱まっている状況です。となると、当然著作権を尊重する圧力は弱まるわけであり、著作権自体も弱くなって行きます。二次創作文化が大きな勢力になりつつあるのは、文化的階梯を駆け上がっているというよりは、売る側と買う側のパワーバランスが変わった結果に過ぎないとも言えます。
マクルーハンは地球村という概念を導入していますが、人類がよりクールな状態へ移行して部族化していっていると仮定すると、著作権がなくなるのはそんなに悪いことではありません。コミュニティAとコミュニティBが利益相反することなく存在しうるならば、お互いのパクリを容認するという状況が生まれてもおかしくないですからね。現時点でも具体例は見つかるんじゃないでしょうか。
価格¥254
順位817,329位
著W.テレンス ゴードン
原名W.Terrence Gordon
翻訳宮澤 淳一
発行筑摩書房
発売日2001 年 12 月 1 日
あまり遠い未来のことを考えてもしょうがないですが、「著作権を尊重する感情はかなり特殊な文化環境において発生する」と考えた方がいいのかもしれないですね。著作権というものは「古代アステカで少女が生贄にされていた」とか「中世ヨーロッパの神父は村娘の処女を貰う権利があった」とか、そういう類のものなのかもしれません。
昔、作家を志す友人が太宰治の文章を読んで「俺が書いたことにしたい」と言うのを聞いた時は「未開人のような奴だ」と思ったものですが、あれは僕の中の近代がそう思っただけだったのでしょう。