fbpx

メニュー

最後かもしれない日(素材)

高橋文樹 高橋文樹

この投稿は 15年 前に公開されました。いまではもう無効になった内容を含んでいるかもしれないことをご了承ください。

 タンスとタンスの間が、そんなに汚れていないとあって、進藤はイケるんじゃないかと思った。拳が入りそうなくらい中途半端な広さだったから、掃除が行き届くはずもないのだが、床は埃一つない。そこに美味そうな団子がころりと転がっている。つやつやして、いかにも美味そうだ。大方、トキ子がこしらえたまま、落としてしまったのだろう。いかにも、うかつなトキ子のしそうなことだ。料理教室で教えてもらったからとはりきって、手がおろそかになったのだろう。宿業だ――進藤は一人息巻いた。業ってヤツだ。おそらく、その団子は、トキ子がこねた中で一番美味いものだったろう。人生ってのはそういうもんだ。一番もっちりした団子が零れ落ちて、しかも家具の隙間で誰にも気付かれないまま、ある。それが人生だ。そういうもんだ。

 進藤は手を伸ばした。団子まであと少しというところで、右の頬がタンスにつっかえた。団子は、いや、人生はすぐそこにあった。

 結局、進藤は台所からお玉を取ってきて、団子を取ることに成功した。その隙間はこの上なく綺麗だったが、やはり口に入るものだからと思い直し、台所に立って洗った。スポンジに洗剤を滴らして、こんなに泡立つのか――などと驚きながら、お玉を執拗にこすった。もうこれ以上はできないというぐらい、汚れを落とした。トキ子は大変だな――などと思いながら、進藤は楽しくお玉をラックに入れた。箸でぎゅうぎゅうになった僅かな隙間を押し退けて、お玉はラックに収まった。一仕事終えた進藤は、団子を一口に頬張った。パサパサして、不味い団子だった。

 午睡に入って目覚めてみると、進藤の腹はぐるぐるしていた。どうやら団子のせいだととりあえず悔やんでみても、吐いたり下痢をしたりではいかにも負けたようだ。とりあえず、我慢した。胃がめくれるような気がしないでもないが、何とかなりそうな気がしないでもない。搖蕩うときは、信じた者勝ちだ。這いつくばったまま、居間の新聞置き場を選んだ。まず訃報を確かめ、4コマ漫画を読み、東京面へ移るというのが進藤の流儀だった。

「あ」

 と、進藤は呻いて、今日がサマージャンボの当選者発表日だったことを思い出した。確か、ジーンズのポケットから出して、冷蔵庫にマグネットで張り付けた気がする。そのまま虫のように這って、冷蔵庫の封筒を剥ぎ取り、新聞のあった場所まで戻ってみると、当たっていた。連番で買ったから、前後賞も当たっている。進藤はあまり驚かなかった。人生とはそういうものだ。進藤が味わった勝利は富にを勝ちえたことにあるのではない。富を得てなおそう思うことが勝利だ。お玉を洗ったのがよかった。あのときお玉を洗っていなかったら、三億円と供にある人生に押し潰されていただろう。

 少し考えて、トキ子には言わないことにした。いや、言わないというより、取っておく。いつかは言うかもしれないという可能性が、夫婦を夫婦に保つのだ。

 進藤はお湯を沸かした。コーヒー豆の在所がわからなかったので、台所を引っかき回した。ケトルがヒイヒイと鳴いた。ようやくのこと、冷凍庫にあるのがわかった。挽いた豆を缶に入れて、凍らせてあった。缶はひんやりと心地良かった。何ということはない、まだ夏なのだ。進藤は熱いケトルの取ってを布巾で掴み、ドリッパーに注いだ。泥のような色をしたコーヒーができた。胃を浄化してくれそうな、暗い色だった。

 トキ子が帰ってくるのは七時半だった。猛烈に具合が悪かった。腹が痛いどころではない。脂汗が出て、もう三回は吐いていた。とても、トキ子が帰ってくるまで保ちそうはない気になって、進藤は遺書を書いた。大したことはしてやれなかったのだ、せめて遺産ぐらい、という算段だ。進藤は這うようにして駅前まで出て、水性ボールペンを買った。いつもの九八円のものではなく、万年筆を模した三百円のものだった。

 机に向かって遺書を書いていると、いくらか気持ちが落ち着いた。夫婦になるまでの紆余曲折が身体を癒してくれるような気がした。雑記帳にしていたA4ノートの十五ページ目に遺書を書き終えると、進藤は眠りについた。

 物音に起こされて、進藤は、あ、死んだ――と思った。自分で自分の身体見つめていた。幽体離脱というヤツだ。団子で死ぬとは。

 まったく、と歯噛みような思いでいたら、やっぱり夢で、もう一度目が覚めた。台所でトキ子洗い物をしていた。具合はだいぶ良くなっていた。

「あ、起きた? ご飯は?」

 トキ子は手を拭きながら進藤の方へ向かってきた。偉業をみれられてはまずい。進藤は机に飛びつき、慌てて隠すようにした。

「なによ、エロ動画でも見てるの?」

「いや、ポルノ小説を書いていた」

「小説? なにそれ? あんた、本読まないじゃん」

「自分の読みたいものを書くって決めた」

「何よ、変なの。会社休んでも、エロ小説書くしかないの」

 トキ子は少しぷりっとしてみせたが、そのまま二人分の夕食の支度を始めた。八時半だった。とうに済ませてもいいはずが、待っていたのだ。可愛い女だ――と、進藤は食卓に向かった。ニラの安い季節だった。

 久しぶりの有給はどうだった、と聞かれ、あまり回らない頭で、進藤は自分の人生を振り返った。この十年、働きづめに働いて、貯めに貯めた有給をまとめて取った日々が、変な団子と宝くじに当たって、遺書を書きかけたところで終わろうとしている。

「そういえば、あの団子はどうしたんだ? 作ったんか?」

「団子?」

 トキ子が尋ね返すので、冷や汗がしたたり落ちた。

「お前じゃなけりゃ、誰だ?」

「誰だ、って、何キレてんのよ? しかも、団子って」

 トキ子は大人しい顔に嘲り笑いを浮かべた。それがなおさら見下して見える。

「お前、団子作んなかったか? こんぐらいの」

 親指と人差し指で○を象ると、トキ子はそれを下から覗き込むようにして、嘲り笑いを極めて見せた。

「はあ? 団子なんて、あんたと付き合ってから一回も作ったことないわよ。小学校の家庭科が最後よ。しかも、団子じゃなくて白玉だからね」

 進藤は急に気持ち悪くなって、吐いた。うっすらと血が混じっていた。

「ちょっと何、あんた、それ?」

 トキ子が叫んだ声が腹に響いて、もう一度えずいた。生温い吐瀉物を手に受けてみると、さっきよりもずっと赤い血が混じっていた。トキ子は悲鳴を上げた。

「ちょっと、あんた、どうしたの!」

 頭からすっと血が引いて、進藤は倒れた。

 今どんな気分か、と聞かれたら、なんと答えようか。進藤はぼんやりと色んなことを考えようとした。走馬灯という言葉を信じていたのだ。が、悲しいぐらいに、何を答えようという問いだけが浮かんでくる。俺は芸能人か。腹立たしい人生だ。この世に別れを告げるというのに、答弁のことばかり。

「宝くじが……」

 進藤は呻いた。それが最後の正義だと思った。一体、宝くじが当たったことを妻に言わずして死ぬとは何事だ。そんな言葉を呑み込んだまま墓に入るなどとんでもない。

「当たったんだ……」

 進藤は声を絞った。彼自身、こんな痛切な声は聞いたことがなかった。

「当たったんだよ……」

 もう一度、絞るように言った。

「え、何よ? 何食べたのよ!」

 進藤は半ば絶望しながら、トキ子に対して憤った。こいつは何もわかっちゃいない――そんな不満を押し込めて、やっぱり宝くじと言おうか、それとも団子と言おうか悩んでいるうち、意識を失った。

すべての投稿を見る

高橋文樹ニュースレター

高橋文樹が最近の活動報告、サイトでパブリックにできない情報などをお伝えするメーリングリストです。 滅多に送りませんので、ぜひご登録お願いいたします。 お得なダウンロードコンテンツなども計画中です。