あけましておめでとうございます。二〇二五年もよろしくお願いします。
去る令和5年12月15日に母が亡くなりました。一年の喪中期間を経て、納骨や相続、遺品整理も終えてだいぶ気持ちの整理もついたのでおしらせしておきます。
母は誤嚥性肺炎で入院し、快方に向かっていたのですが、突然の出来事でした。致死性不整脈という症状で、割と多いそうです。苦しまずに最後を迎えたのが唯一の救いだったかもしれません。享年75歳でした。
あと10年以上は生きるものと思っていたので、少し早かったです。それが残念です。
遺骨は半分だけ東京湾に散骨しました。その日の東京湾は汚くて、下水の匂いが漂っていたのですが、茨城・東京・千葉で過ごした母にとっては身近な海です。散骨の約束は、私がまだ小さかった頃、母が「もし自分が死んだらお骨をパーッと海に撒いてほしい」と言われたからでした。当時はなぜそんな悲しいことを言うのだろうと不思議でしたが、よく覚えています。
法事などの行事はまだありますが、いくつか母に関してしておきたいことがあるので、なんとなく書いておきます。
その1・母の仕事を記録に残す
母は高橋三恵子といって、ライターや家族診断士としても働きました。団地新聞「ファミリー」で長いあいだ女性列伝の連載を持っていて、いまだったらフェミニスト作家としてもうちょっと有名になれたかもしれませんね。本も四冊出しています。社会思想社や砂書房などの版元はもう倒産してしまったので、手元にある著者在庫を細々と通販などで売っていくつもりです。
母はそれなりに野心があって、僕にはよく企画書の話をしていました。夏目漱石の神経症についての本を出すために講談社に持ち込みに行ったりしていたはず。晩年は藤原道長について書くつもりだったようで、資料がずいぶん残っています。これらは紙の資料でわりと嵩張るのですが、目録でも残しておいて、何を書こうとしたのかは残しておく予定です。
また、母がカウンセラーの仕事をするために作ってあげたWebサイトもどうするか考えなきゃいけないです。いまは私のレンタルサーバーに同居させていますが、「Webサイトを死後どうするのか」という問題に直面しています。
ただ、息子としては母の名声をもうちょっとでも高めてあげたいという気持ちがあるので、なにか考えます。
その2・介護の記録を残す
親しい人にはある程度話していたのですが、母はパーキンソン病を患い、2021年ぐらいからずっと僕が介護をしていました。幼子四人を抱えながらの介護というのが大変で、人生でこんな大変なことがあるのかと打ちのめされていました。2030年にピークを迎えるビジネスケアラー問題を先取りしてしまいました。
特に僕のような世代は共働き世帯も多く、昔のように「義母の面倒を妻が見る」という雰囲気でもないので、自分の親の介護をする中年男性は多いでしょう。僕は自由のきく仕事をしていたのでなんとかなりました(なったのか?)が、働き盛り中年の介護離職というのも今後増えていくはずです。とにかく、特養に入所するまでは本当に辛かったです。悩んでいる人の役に立つかもしれないと思うので、これも記録に残しておきたい。
とはいえ、あんまり赤裸々に書くと家族・親戚が嫌がるかもしれないので、あくまで一般的な知識として紹介しておこうと思います。
そんなわけで、2025年はもろもろ(破滅派、出版活動、自分の作品の執筆)を頑張るとともに、母と最後に過ごした日々を振り返りたいと思っています。本年もどうぞよろしく。