僕は昨年末にエコポイント亡者と化してテレビを買い替えたが、滅多に見ない。手持ち無沙汰を持て余した昼食前などにつけるぐらいだ。先日の昼もちょうどそんな感じで、そのときはたまたまワイドショーをやっていた。ホンジャマカの泉が司会を務めており、ちょうど駅弁特集が始まるところだった。リポーターの彦摩呂は東京駅の駅弁フェアか何かで地方の名物駅弁を平らげ、いつものようにコメントをした。「宝石箱や〜」に始まる知名度の高いネタから順序よく、几帳面に。そして、持ちネタをほぼ披露し終えた頃と、東京駅ではどうしても手に入らない駅弁を求めて青森まで行くことになった。新幹線で三時間をかけて青森駅に辿り着くと、その駅弁はなぜかたった一つだけ残っており、ギリギリのところでありつくことができた。最後のネタである「うますぎてコメントできないのでアナウンサーが代わりに喋る」メソッドも炸裂させた。ありふれた寸劇だった。ワイドショーとはそもそもそういうものだし、それ自体をどうこう言うつもりはない。僕が気になったのは彦摩呂の表情だった。この日の彦摩呂はすっかり太っていたというだけでなく、白い顔をしていた。単に体調が悪いだけなのかもしれないのだが、「宝石箱や〜」というコメントにもどこか投げやりな調子があり、語尾が伸びていなかった。あの彦摩呂もついに料理コメンテーターに飽きてきたのか、見た当初はそう簡単に考えたのだが、思い返すとそれだけではないような気がした。もしかしたら、彦摩呂の心は今、壊れかけているのかもしれない、と。ナインティナインの岡村が鬱で休養していたことは周知の事実になりつつあるし、つい先日なかやまきんに君の記事が2ちゃんまとめブログにあがってもいたが、その日の彦摩呂も表情筋の弛緩した”あの顔”をしていた。
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人の心が壊れるところを見聞きするのはまれなことではなくなった。昨日も仕事でそういうことがあったばかりだし、ここ数年で特に増えているような気がする。もっとも、ある特定の個人が壊れかけているかもしれないということは、もしかしたらさして重要ではないのかもしれない。そういうことは昔からあったことだし、まして彦摩呂という人は生き馬の目を抜く芸能界で何年も生き残ってきたのだ、いくらかのタフネスは持ち合わせているだろう。ただ、あの表情をした人間がテレビに出ているという事態こそが、誰もが薄氷を踏むようにして生きている時代を象徴しているような気がしてならなかった。
同窓会に心躍らせて行く人はどれだけいるのだろうか。中学、高校、大学となんでもいいのだが。分たれていなかったはずの世界がもう変わってしまった——そんな一抹の悲しみを会話の端々に感じとることをある種のナイーブさだとは思わない。僕のような人間ははじめから周辺的マージナルであることで救われてもいるのだから。同じクラスが開催する二つの同窓会両方に招かれるのは、僕に人望があるからではなく、単にマージナルだからだ。NとかJとかを冠した半官半民大企業の友人がガハハと笑うようになっていくのを茶化せるのも、苦しい立場に置かれたポスドクの友人に破滅派を強引に売りつけることができるのも、単に僕がマージナルであるからに過ぎない。
人は社会の中でなんらかの属性を持たずにはいることはできないし、僕も例外ではない。丸山真男をひっぱたきたい男が朝日新聞で元気に吠えているのを見ると「赤木智弘が元気なのはいいことだ」と溜飲を下げる。保険料の値上がりの報を聞いた朝、社交場と化した整形外科の前を通ればうんざりする。ある世代の声というのは確かにあるし、それが他の世代とぶつかることもある。バブル世代が鬱で壊れていくのを見たこともあるし、結局のところ、どの属性の持ち主もそれなりに言い分はあるだろう。正義と戦うのはいつも別の正義だ。その調整こそが民主主義であり、それなりの懸命さをもってしかるべき人が努力している。それでもなお、財政の破綻は少しずつ現実味を増し、かつては当然だったことがとても難しくなっている。答えは多分、誰も持っていない。この国は、静かに壊れ始めている。
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ヘーゲルは時代精神(ツァイト・ガイスト)について語っている。国家や民族の集合的な精神を仮定し、ナポレオンによるフランス革命を歴史の完成と見る史観はポストモダンの現代においてあまり有効な手法ではないかもしれないが、あらゆる属性間の対立を調整し尽くすよりは僕にとってなじみやすい。内部でどんなに細かな軋轢や調整が生じていようとも、一人の人間と考えた方が、はるかにわかりやすい。
時代は無理心中の決意したところだ。戦後間もなく生を受け、その後はそれなりに順調な成長を迎えたが、いまはもう先が見えない。貯金も底が突くのは明らかだ。賢かった頭もはっきりしないし、子供達は馬鹿ばかりだ。そして、これが一番絶望的なのだが、時代の流れについていけない。処方箋は幾つかあるが、どれもほんの少ししか効かない。もういっそ、みんなで死んでしまった方がいい。孫も生まれるべきではないのだ。そんな辛い思いをするぐらいなら、いっそのこと今あるものをすべて使い尽くそう——今という時代精神はこんなところだろう。
ひどい話だ。いったい、この国を包む絶望の先に何が待っているのだろう。海外で活躍する日本人も、成長する新興ベンチャー企業も、科学技術の発展も、戦後最少の殺人事件数も、結局のところ時代精神を救わない。この心中は止められない。ならばせめて、次の時代精神に思いを馳せよう。次の時代精神は、たぶん自殺遺児のように生きるだろう。たとえば、こんな風に。
——心中が終わり、家には斧で頭を割られた家族の姿と、梁にぶら下がる祖父の姿があった。ただ一人、小さな子供だけが生き残った。その子供は後頭部にひどい裂傷を負い、深い後遺症が残った。同年代の子供達から遅れを取りながらも、少しずつ回復することを目指す。もちろん、完治はしない。左手の先には痺れが残っているし、目はあまりよく見えない。それでも、子供は回復していく。人よりも遅れながら、少しずつ幸せを手に入れていく。それで満足か、と聞かれることはよくある。なるべく「満足している」と答えるようにしている。自分の家族はあれだけ幸福があっても駄目だったのだから、幸福の多い少ないでは駄目なのだ。では何があったらいいのかというのはよくわからないが、そのうち見つけるつもりだ。
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彦摩呂の出演番組を見て、こんな日記を書くことになるとは思わなかった。僕は今日も彦摩呂のことが心配でしょうがなかった。もし彦摩呂が本当に時代精神の体現者——現代のナポレオン——だったら大変だ。結局のところ、彦摩呂のアメブロを訪れ、例の番組を告知する記事を見た。
なんだこの改行の量は——僕はアメブロの流儀におののきながら、そっとブラウザを閉じた。大丈夫、まだ彼は戦える。なぜかはわからないが、そう思った。壮大な撤退戦を生きる僕たちなら、きっとそう思うべきなのだ。