2022年にロシアがウクライナに進行してから早三年、いまだに戦火がやむことはありませんが、そもそもなぜロシアはウクライナを攻めているのか、という疑問があったので『ネオ・ユーラシア主義 「混迷の大国」ロシアの思想』(浜由樹子)を読みました。
僕の事前認識では「ドゥーギンとかいう哲学者のカルト思想にプーチンがハマっているらしい」というものだったのですが、本書によると実態は必ずしもそうではないみたいですね。
そもそもユーラシア思想というのはなにかというと、ロシアのアイデンティティをヨーロッパではなくユーラシアに置こう、という運動で、1920年代ぐらいからあったとか。とはいえ、ユーラシアというのはヨーロッパ+アシアの合成後で、本来は地域区分名です。そのユーラシアに活路を見出したのがロシア革命時代の思想家たちで、「ヨーロッパの辺境としてのロシア」ではなく、「ヨーロッパとアジアの架け橋であるロシア」というアイデンティティを見出そうとしていたようです。ヨーロッパでもアジアでもない、その中間としてのユーラシアですね。出発点としてはわりとユートピア的な思想です。
この「ヨーロッパの辺境としてのロシア」というのは、ロシアに深く根差したアイデンティティです。ロシア文学でもなぜかフランス語を話す上流階級が登場しますが、ベルサイユ宮殿を中心とした「ヨーロッパ文化」からもっとも遠い位置にあるのがロシアで、エルミタージュ美術館はそのコンプレックスの現れ、という説も聞いたことがあります。
で、ロシアのアイデンティティを都合よく読み替える試みであるユーラシア主義を現代風にアレンジしたのがネオ・ユーラシア主義で、ドゥーギンらが提唱するのは「ヨーロッパとアジアを包含するユーラシアとそこに君臨するロシア」というビジョンです。「モンゴル帝国のような大帝国の資格があるのがロシア」「西側の堕落した倫理観に対抗しうるのがロシア」というような説も含んでいます。
「モンゴル帝国の末裔」というアイデンティティはけっこう面白く、僕が高校生の頃は「タタールのくびき」なんて言葉があって、ロシアがモンゴル帝国に支配されていた屈辱と停滞の時期と教えられていた記憶があるのですが、いまでは「ヨーロッパのど田舎であるルーシ(ロシア)がモンゴル帝国の庇護下で力を蓄えた時期」とされているようです。昔の歴史はロシアの愛国史観をそのまま日本でも教えていた、というわけですね。
とはいえ、ロシアではシベリア開発がながらく軽視されていることもあり、視線は常に欧米(ヨーロッパ・アメリカ)を向いていることも本書で指摘される通り。「ユーラシアの一部としてのアジア」はあくまでストーリーとして採用されているモブキャラ的な存在ですね。
本書で紹介される思想家ではドゥーギンよりアレクサンドル・パナーリンの方が政治家に直接影響を与えていそうでした。基本路線はドゥーギンと同じですが、ドゥーギンが失脚してインフルエンサー(炎上系YouTuber)っぽくなっているのに対し、パナーリンは最後まで学者だったので、ちゃんとしてました。
本書を読むと、ロシアという国にはけっこういろんなコンプレックスがあることがわかります。
- ヨーロッパのど田舎であったこと
- モンゴル帝国に支配されていたこと
- 冷戦でアメリカに敗北したこと
- ポスト冷戦期に経済的におちぶれたこと
これらのいろんなコンプレックスが混じり合って、それを解消するストーリーが必要なのだな、ということがわかります。同じ時期に宮脇淳子『ロシアとは何か ―モンゴル・中国から歴史認識を問い直す―』もAudibleで聞いたので、ロシアにちょっと詳しくなりました。
とはいえ、こうしたストーリー(史観といってもよい)を作って信じている人たちが戦争をやめる理由もないよなぁ、という絶望的な読後感も覚えました。終わり。