実は私、2024年の大晦日から正月ぐらいまでXでプチ炎上しておりまして、それが以下のツイート。
去年から晶文社のWebサイトで藤田直哉氏による「フェミニズムでは救われない男たちのための男性学」という連載があって、その第二回「「オタク差別」は存在するか?――「覇権的男性性」と「従属的男性性」」が炎上し、そのアンサー記事として第三回「「オタク差別」とは何か?──「オタク」概念を整理する」が書かれたのですが、それはそれでまた盛り上がってしまい、いうなれば私はよくわからず火中の栗を拾いに行ってしまったわけですね。ちょうど時期的にもコミケ終了時ぐらいだったので熱量が高かったのかな?
もっとも、この投稿に関しては私自身も反省してます。おもに以下の2点。
- 「差別は変更不可能な属性に行われる」というのは間違い。宗教・職業などもあるので。
- 変更困難なほど社会から差別として認定されやすい、というのが本来の私の主張でしょうか。
- ユダヤ人がユダヤ教を簡単に捨てられるかというと、そうでもないと思うので、空飛ぶスパゲッティ・モンスター教より重大な差別として認定されやすく、後者は無視される、というグラデーションが存在しているという認識です。
- 「変更不可能な属性」と藤田さんは明確に書いておらず、「属性」としか書いてなかった。
引用ポストやレスバなどを経て、訂正ポストはしたのですが、どうも「オタク差別は存在しない」という議論自体がオタクVSフェミニストというか、しばき隊界隈+一部のフェミニストvs表現の自由戦士界隈の対立がSNS上(おもにTwitterから現Xまで)にあって、そのため左側陣営認定されてしまったようです。私自身は発言が迂闊だったと反省することもあるのですが、めちゃくちゃ罵倒されたので、そりゃ議論には向かないプラットフォームだよな、とは思いましたね。
あと、大晦日に2023年に亡くなった母についての記事を書いてるぐらいのタイミングで燃え始めたので、そこは「インターネットぉ!」と感じました。
とはいえ、火元である藤田さんに比べれば私の炎上など大したことないはずなので、「勉強になりました」ぐらいの感じです。
では、本題に入ります。なぜ「男性学」について興味を持っているかというと、私自身がとくに自身の男性性に困っているわけではないのですが、中年の危機と呼ばれる年代に入ったこと、母の介護を四年ぐらいやったこと、そして、先日亡くなった盟友山谷感人の面倒をみていたことなどから、「自分は自分を犠牲にして何をやっているんだ?」という思いがあったので、その答えを求めて色々調べていました。すると……
- 最近「ケア」という言葉が流行っている。このケアというキーワードはどうも重要らしいし、自分のやっていることはケアに分類されそうだ。
- ケアについての本を読むと、わりとフェミニズムの話になる。たとえば、『ケアの倫理』という本はほとんどフェミニズムの本。ケアという概念に焦点を当てたのがそもそもフェミニズムらしい。
- そうなると、フェミニズムの本をディグっても「家父長制に侵された中年男性が歳をとってから挫折した! 残念!」という感じになりそう。
- ラジカル・フェミニズムから男性学というのがあり、いつか「ケアについての男性学」についての本もあるだろうと男性学を読み始める。
- なんか男性学は「非モテ」「生きづらさ」あたりが多くて、ケアが出てこないな……と感じ始める。
- とはいえ、軽く炎上したときにレスを交わした人から「結婚相談所でアニメが趣味と書くなと言われる」が差別の実例として挙げられ、「そんなにそれが大事なのか」と痛感したので、なら関連書を読んでみるか、と思う。
という流れを経て、『「非モテ」からはじめる男性学』に辿りつきました。
価格¥3,000
著西井 開
ナレーション北村 真一郎
出版社Audible Studios
発行Audible
発売日2024 年 2 月 16 日
Audibleしかないですが、中古で新書も買えます。
この書籍は自身もそうだと自認する「非モテ」というキーワードで集まった研究会を主催する社会学者の本です。構成は以下の通り。
- 「非モテ」という概念がどうやって成立したか。
- 非モテ研究会についての説明。
- 非モテを自認する人の抱える困難。これは周縁化・劣位化された過去の経験が非モテ自認へと至る過程が個別具体的に紹介されます。個人的にはハゲ男性研究のくだりが面白かったです。
- 女性に対する非モテの加害性。単に非モテの「いきづらさ」だけでなく、相手が明らかに嫌がっているのに告白して振られてストーカー化するなどの、「非モテによる加害」も取り上げています。
- 非モテ研究会で語ることの意義。
- 当事者研究として非モテについて語ることの難しさ。
本書に登場する、著者を含めた非モテ研究会の皆さんは、研究会というサークルの特性上言語化をしようという意思があるので、非モテ全般の中ではかなり理性的という印象を覚えました。これは著者の活動をくさすわけではないのですが、言語化する人はやはり言語化が得意な人であるわけで、非モテ全体をカバーしていない予感がしています。
僕の記憶だと、だいたい一九九〇年代後半ぐらいからモテないことについて語るのが一般化してきた印象があります。中学・高校ぐらい(1992-1998)に読んでいた男性ティーン向けの雑誌(ホットドッグ・プレスなど)では、「いかにして女とヤルか?」みたいな特集がよく組まれていて、「みんなそんなにセックスしてんの?」と思っていたのですが、2000年代に入るあたりからヤラハタ(やらずの二十歳、童貞のまま20歳になること)がパロディ的に受け止められるようになった印象があります。漫画『GTO』の主人公鬼塚英吉はずっと童貞でしたし、伊集院光とみうらじゅんも『D.T.』という童貞力について語る本を出していました。その後、「童貞のまま三十歳になると魔法が使える」みたいなネットミームが誕生したり、「モテなくてもいいんだ」という言説が少しずつ多くなっていったような印象があります。もちろん、これは僕自身の年齢の変遷(≒読むメディアが変わった)が影響しているかもしれないですけどね。そういう意味で先駆的なのは、まさに「ヤラハタ」という言葉を広めた漫画『Bバージン』でしょうか。
で、この「非モテについて語る」ということ自体が「問題は非モテではなかった」という方向に向いていくのが示唆的です。「自分は非モテであって苦しい」というのがなぜなのか、ということを同書では問います。なぜそんなに非モテが苦しいのか。参考書籍を読み解きながら、社会的な排除(学校・仕事などの環境での周縁化)がいつしか親密圏(恋人ができるか)への異常な期待に変換されるのはなぜなのか、と問います。
そこまでズバッと明確な答えがでるわけではないのですが、ある程度非モテの図式化がされることで、問題がわかりやすくなります。たとえば、インセル(Involuntary Celibate=不本意な独身)と呼ばれる人々が欧米社会にいますが、この人たちの一部は過激なミソジニー(女性嫌い)を公言し、実際に行動を起こすこともあります。ある意味で、同書の4章で取り上げられた「非モテの加害性」を全面に押し出していると言えるのでは。それが最終的に行き着くと「女をあてがえ論」にいきつくのですが、こうした人々がたとえばウエルベックの『服従』を読んでどう思うのかとかは興味があります。僕は『服従』をヨーロッパ文明批判として読んだのですが、「非モテ」「男の生きづらさ」として読むとバイブルなのでは?
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というわけで、はからずも「非モテ」の本を読んだわけですが、興味がある方はご一読を。僕自身は「非モテ」という自認がまったくないので、言及しづらいのが正直なところです。当事者として苦しんでる人は「へー、大変だね」とか言われてもムカつくでしょうしね。
とはいえ、男性学それ自体を批判的に読むというのは2025年においてそれなりに重要な気がしているので、類書を読んだらまた感想を書こうと思います。終わり。