Veryという雑誌でアーティストのスプツニ子!さんとモデルのシンマイさんが対談して「卵子凍結の次に来るのは代理母だよね!」といって炎上&即記事削除したのですが、いかにもネオリベっぽい意見で「そういうこといいそう!」という納得感さえあります。
代理母についての言及が炎上したのは「代理母をやる人は経済的に困窮した人が多くそれを利用することは搾取だから」という点がすべてなのですが、それはそれとして「子供が欲しかったら代理母がクルよね♪」という発言の軽さが子供を持つことに対する何某かの態度を示しているような気がします。
それはスプツニ子!は責任感がない! とかそういうレベルではなく、なんというか自己拡張の欲望が子供を持つことに直結しているような気がするんですよね。
現代社会で社会的・経済的に成功しているパワフルな人にはネオリベ的な思想の持ち主が多いのですが、そういう人って不老不死に興味あったりしません? 「代理母が〜」というのも自分のコピーとしての子供、つまり自己拡張への興味があるように思うんですよね。
僕の知り合いに不老不死に関連するニュース(GIGAZINEとかに載るやつ)を嬉しそうに伝えてくる人がいるのですが、僕はそこまで興味ないんですよね。不老不死。人格という欲望する主体がそもそも不老不死に向いていない気がします。
『3×3 EYES』という漫画には三只眼吽迦羅という非常に長命な妖怪が登場しますが、「人生に飽きて多重人格になる」という設定でした。統合された一つの人格というもの自体が不老不死に耐えられないわけですね。これはなかなか優れた洞察で、「不老不死になりたい」という願望そのものが「いつか消え去ることを決め付けられた世界でたった1人しかいない、私にとってかけがえなのない私」という根源的な恐怖に支えられているので、消え去らなくなったら不老不死願望がなくなってしまうんですよね。自家撞着。
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幸福が自己決定権や自由からのみ来るのであれば、子供を持たないこと(もしくは代理母を使うこと)は最良の選択であると子を持つ僕も思います。実際、僕は子供が4人もいるので、自分の人生はもう自分のものではなくなってしまったように感じていますし。時間的にも、経済的にも。僕のもっとも重要な自己実現である小説執筆に許された時間さえ激減しています。
それでも幸せではあります。
ネオリベ(新自由主義)というのは経済的な問題だけではなく、自由と自己決定権の獲得、大袈裟にいうなら神からの開放(=自然への勝利)を願う人類の活動が先鋭化されたものだと僕は考えているのですが、それゆえに自然科学的な困難に立ち向かうのが好きですよね。遺伝子、生殖、クローン、身体置換、人格のデジタル化、宇宙、食糧……。
こうした「自然つまり所与の条件の克服」というのは人類にインストールされた本能ではあるので、多かれ少なかれ誰しもその傾向を持つでしょうが、ネオリベの人はなんというか「競争それ自体が目的」というところがあるので、極端に走りがちですよね。ネオリベ種族間のマウティング合戦で主張が異常な地点までいってしまうというか。
ちなみに、僕も20代前半は「ワシは人生を小説に捧げる、家族など持たぬ!」と思っていたのですが、よく考えたら偉大な作家の大半は親なんですよね。いい親かどうかは置いておいて。これは何某かの事実を意味していますよ。
そういえば最近大学の恩師である中地義和先生がランボー詩集を翻訳したので久々にランボー読みました。
あれが見つかった。
何が?——〈永遠〉が。
それは太陽と
行ってしまった海。
アルチュール・ランボー「永遠」岩波文庫『ランボー詩集 フランス詩人選(1)』初秋
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まとまりませんが終わり。