問わずがたりの洋酒外史

佐藤 章

洋酒といえば、誰でも最初に思い浮かべるのがウイスキー。いわば洋酒のシンボル的な存在なのだが、英語表記が[一般に〔米〕では Whiskey,〔英〕では Whisky.]であることはあまり知られていない。米英両国では、このスペルの差で自国産と輸入品を区別しているという。わが和製ウイスキーの“Whisky”という英国式表示は、手本にしたスコッチのフォルムに倣ったものであり、それ以上の意味はないようだ。カナ表記にしても、ごくまれに〈ウヰスキー〉という書き方を見かけるが、これとて差別化を意図したものではなく単にカナづかいの時代性にすぎない。

現在、カナ表記は〈ウイスキー〉に一本化しており、そこに国産・舶来の区別はない。最近は価格面での差もちぢまり、20年前に ¥10,000 だった本場のスコッチが半値近くになるなど、ウイスキーは一層ポピュラーなものになってきた。しかし、消費量についていえば、洋酒のトップは何といってもビールだろう。よっぽどの下戸はともかく、まず誰でもタシナミ程度には口にする。

そのビールも明治中期には、せいぜい好事家が味わう程度だったらしい。当時流行した川上音二郎の《おっぺけぺ節》では、まるでゲテモノ扱い。「むやみに西洋を鼻にかけ/日本酒なんぞは飲まれない/ビールにブランデーベルモット/腹にも馴れない洋食を/やたらに喰うのも負け惜しみ/ないしょで後架でヘドついて/まじめな顔してコーヒのむ」と、特権階級をギューの目にあわせるネタにしている。観客も「ざまぁみやがれ!」とばかり同調して西洋カブレをオチョクり、日々のうっぷんを晴らしていた。

もっとも、オッペケペッポーの攻勢に、ぐぅのネを上げた紳士や淑女がいたかどうか…西洋カブレとは、要するに欧米文化への信奉者のこと。〈鰯ノ頭ヲ信心〉する者があるならヨーロッパやアメリカの文物を信仰する者がいても一向に不思議はない。信ずる者の強さで、依然グラス片手に舞踏会、アン・ドゥ・トロヮとやっていたように思われる。

憶測になるが、むしろ辛かったのは庶民の中の飲んべぇ連中ではなかったか。ハイカラ族にユサぶりをかけた手前、泰西の酒には手を出しづらい。「なに、ビールだとぉ、べらぼーめ、こちとら人間サマでぃ、カニじゃあるめぇしアブクなんか飲めるかってんだ」などと強がりながらも、サゾ飲みたかったろうという気がする。

しかし明治32年7月4日、恵比寿ビールのPRを目的にしたビアホールが新橋に登場。ジャムパン1ヶ2銭の時代に 0.25 リットル5銭でビールの1ぱい売りを始めたことから様相は一転する。レンガづくりのモダンな店ながら、はっぴ姿の車夫も金バッヂの紳士もゼニを払えば平等の客。誰はゞかることなくビールをグィとやって舌ツヾミを打てる。当初から評判になって人々がワッと集まり、ファンの数もふえた。2ヵ月後の9月には中央新聞がその盛況ぶりを図入りで伝えたほどだった。

この年は西暦1899年。まさに19世紀の〆くくりの年にビールのヌーヴェルバーグがぼっこうしたことになる。恵比寿は文字通り“福の神”となったわけだが、そのころは仮名表記も〈えびす〉・〈エビス〉ならぬ〈ゑびす〉・〈ヱビス〉で、いかにもゴリヤクのありそうな字ヅラになっていた。

20世紀に入って1906年になると、夏目漱石は小説『二百十日』(中央公論・明治39年10月号)の中で次のようなエピソードを創作した。舞台は阿蘇のひなびた温泉宿。

「ビールは御坐りまつせん」

「ビールがない?───君ビールはないとさ。何だか日本の領地でない様な気がする。情ない所だ」

「なければ、飲まなくつても、いゝさ」と圭さんは又泰然たる挨拶をする。

「ビールは御坐りませんばつてん、恵比寿なら御坐ります」

「ハヽヽヽ愈妙になつて来た。おい君ビールでない恵比寿があるつて云ふんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」

「うん、飲んでもいゝ。───その恵比寿は矢つ張り瓶に這入つてるんだらうね、姉さん」と圭さんは此時漸く下女に話かけた。

ゆ上がりの男2人と、着物を「つんつるてんに着てゐる」下女のやりとりは、いささかマンザイのボケとツッコミのセリフを思わせるが、ビールもこの時期には日本のスミズミまでじゅうぶんに出回っていたのがわかる。

こうして19〜20世紀初頭に日本人に受け入れられたビールは、いまでは日常生活にすっかりとけこんでいる。それだけに洋酒という感じがうすい。豚カツが〈和食〉でカステラが〈わぐゎし〉なら、ビールが〈日本の味〉であっても何ら不都合はないはずだ。実際、国産ビールの製造には米が一役かっている。