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	<title>高橋文樹.com &#187; 創作</title>
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	<description>小説家高橋文樹が自ら情報を発信するブログです。小説・Web制作などの話があります。</description>
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		<title>キャラがカブるよりなお悪い、小説の設定がカブったら</title>
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		<pubDate>Mon, 27 Jul 2009 14:58:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>高橋文樹</dc:creator>
				<category><![CDATA[創作]]></category>
		<category><![CDATA[Tips]]></category>
		<category><![CDATA[愚痴]]></category>

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		<description><![CDATA[かれこれ二年間も表舞台から遠ざかっている不肖・高橋ですが、そろそろ生活にも落ち着きが出たので、60枚ぐらいでストップしていた小説を書きはじめようと思っていたおりましたです、はい。
しかし、その矢先、衝撃的な事実が発覚しま [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>かれこれ二年間も表舞台から遠ざかっている不肖・高橋ですが、そろそろ生活にも落ち着きが出たので、60枚ぐらいでストップしていた小説を書きはじめようと思っていたおりましたです、はい。</p>
<p>しかし、その矢先、衝撃的な事実が発覚しました。</p>
<p>それは第52回群像新人文学賞の受賞作「カメレオン狂のための戦争学習帳」の設定が思いっきりカブっていたことです。</p>
<div class="tmkm-amazon-view">
	<p><a href="http://www.amazon.jp/%E7%BE%A4%E5%83%8F-2009%E5%B9%B4-06%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B00287GOJO%3FSubscriptionId%3D0Q5JKQGKGX1PM5K1CPG2%26tag%3Dhametuha-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB00287GOJO" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51JRQUxlvGL._SL160_.jpg" border="0" alt="" /></a></p>
	<p><a href="http://www.amazon.jp/%E7%BE%A4%E5%83%8F-2009%E5%B9%B4-06%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E9%9B%91%E8%AA%8C/dp/B00287GOJO%3FSubscriptionId%3D0Q5JKQGKGX1PM5K1CPG2%26tag%3Dhametuha-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB00287GOJO" target="_blank">群像 2009年 06月号 [雑誌]</a></p>
	<p><em>出版社：</em>講談社( 2009-05-07 )</p>
	<p><em>定価：</em>￥ 980</p>
	<p>雑誌 (  ページ )</p>
	<p>ISBN-10 : </p>
	<p>ISBN-13 : 4910032010693</p>
<hr class="tmkm-amazon-clear" /></div>
<p>まださわりしか読んでいないんですが、「徹底的に管理される教師たち」という設定が同じでした。今のところ面白そうです。群像の選考委員はすごい若返りを果たしていたんですね。</p>
<p>これまでの経験から、自分が既視感を覚えた時点でその小説はおそらくお蔵入りにした方がよいと判断、ゼロから書き直しております。</p>
<p>たとえ文体が異なろうと、登場人物のキャラクター設定が異なろうと、世界観が異なろうと、設定が似ているのはいかにもマズーですね。</p>
<p>こうなったのも僕がぐずぐずして作品を完成させなかったのが悪いわけですし、誰かが僕の邪魔をしていたわけでもないので、自業自得です。</p>
<p>新しい新人がボンボコ出てきては消えていくのが畏るべしニッポンの文壇、すでに不透明度40%ぐらいになっている僕はもうちょっとがんばらないといけませんね。</p>
<p><a href="http://www.adobe.com/jp/products/flex/">Flex Builder</a>の使い方勉強してる場合じゃねー。</p>
<p>と、愚痴をいっぱい書いてしまったので、自分が小説を書き直すにあたって心がけていることでも書いておきます。</p>
<h3>小説がカブったら</h3>
<ul>
<li>自分の小説とカブった小説、それぞれの内容・特徴を書き出して、類似度を再認識</li>
<li>そもそも自分が何を書きたかったを知るために、自分で帯を書いてみる</li>
<li>たとえそれまで何枚書いていようが、すべてを白紙に戻して書き始める</li>
</ul>
<p>こんぐらいですかね。意外と普通だな。</p>
<p>ところで、僕はいわゆる「小説の書き方」ということについて身近な人と真面目に語り合ったことがありません。</p>
<p>「小説の書き方」について話していると、いつも「小説を書くときの心構え」とか「なぜ自分は小説を書くのか」ということについて相手が語り始めるので、面倒臭くなっちゃうんです。具体的な話が出たとしても、「書く時間」ぐらいだったりしますしね。朝だとか夜だとか。</p>
<p>いつだったか、昔の新潮で桐野夏生さんが「<cite>自分はタイトルから決めて書く</cite>」とおっしゃってましたが、そういう感じで明確なやり方を聞いたことはあまり記憶にありません。</p>
<p>僕はどちらかというと、いろんな方法を試したいタイプなので、作家が「こういう書き方してるよ」と聞くと、すぐ試すようにしています。</p>
<p>生活環境もコロコロ変わっていたので、何一つ身についていませんが、最終的にはプルースト部屋（すべてコルク張りで女中が食事を運んでくる）で執筆するのが今の夢です。</p>
<p>まとまりませんが、終わり。</p>


<p>Related posts:<ol><li><a href='http://takahashifumiki.com/literature/130/' rel='bookmark' title='Permanent Link: ディエゴ・マラーニ『通訳』を読んでやる気を出してみる。'>ディエゴ・マラーニ『通訳』を読んでやる気を出してみる。</a></li>
</ol></p>]]></content:encoded>
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	</item>
		<item>
		<title>小説のモデル問題についてまじめに考える</title>
		<link>http://takahashifumiki.com/literature/creation/333/</link>
		<comments>http://takahashifumiki.com/literature/creation/333/#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 11 Nov 2008 17:29:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>高橋文樹</dc:creator>
				<category><![CDATA[創作]]></category>
		<category><![CDATA[文学フリマ]]></category>
		<category><![CDATA[評論]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://takahashifumiki.com/?p=333</guid>
		<description><![CDATA[はじめに
先日、文学フリマがありました。破滅派として参加したわけですが、思わぬ出会いがありました。
第七回文学フリマでは、東浩紀さんらが中心となって「ゼロアカ道場」という批評家トーナメントが行われていました。2人1組のチ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h4>はじめに</h4>
<p>先日、<a href="http://bunfree.net">文学フリマ</a>がありました。破滅派として参加したわけですが、思わぬ出会いがありました。</p>
<p>第七回文学フリマでは、<a href="http://www.hirokiazuma.com/">東浩紀</a>さんらが中心となって「<a href="http://shop.kodansha.jp/bc/kodansha-box/zeroaka.html">ゼロアカ道場</a>」という批評家トーナメントが行われていました。2人1組のチーム戦を行い、たくさん売ったところが勝ちというものです。これはこれとして面白い試みであるし、結果的に文学フリマの来場者数が運営側の予想を超えたという点で大成功だったようです。</p>
<p>僕はそれほど批評論壇に関心を持っていませんが、今回のゼロアカにはものすごく注目していました。それは、大学の同級生である三ツ野陽介くんが登場していたからです。彼が自身のブログエントリー「<a href="http://d.hatena.ne.jp/yazunami/20081106/1225974308">過去に追われるミツノさん</a>」でも書いている通り、僕と東大仏文の同級生は彼に絶交されてたのです。</p>
<blockquote><p>さて、前回のエントリでは文学フリマへの思い入れを語ってみたけど、しかし実際には、文フリ参加に向けて、いろいろと懸念していることもある。その懸念とは、「おーい、このゼロアカＴシャツ、門下生一〇人のプロフィール写真がプリントされてるよ&#8230;&#8230;」ということではなくて、もう何年も絶交状態にある昔の友人たちとおそらく文フリ会場で顔を合わせることになるであろう、ということなのである。<a href="http://d.hatena.ne.jp/yazunami/20081106/1225974308"><cite title="過去に追われるミツノさん">過去に追われるミツノさん</cite></a></p></blockquote>
<p>僕と友人たちはこれまでにも、何度か関係の修復を試みていました。仏文の仲間で集まるたびに「三ツ野も呼んでみよう」という感じで電話したりするのですが、繋がったことは一度もなく、ついにある人に仲介を頼んだとき、「彼らとは話したくない」という明確な拒絶の意思を示されていました。</p>
<p>僕は最近も「空気が読めなくてすいません」としか言いようのないミスを頻出しており、人に嫌われない人間だと思ったことは一度もないのですが、三ツ野くんが突きつけた「絶交」という拒絶は意外なほど強く、驚きさえ覚えていました。二十歳過ぎて絶交などということがあるとは、思いもよらなかったわけです。それも、後ほどある人から伝え聞いたところによると、彼が仏文科の友人(ほぼ)全員と絶交したのは、他でもない僕が原因だと彼は言っている。</p>
<p>これはほとんど不条理でさえある事実でした。とはいえそれで反省するでもなく、不条理でもいっか、人生がそうだしね、と考えていたのですが、前掲サイトにて語られている通り、なんとそこには「途中下車」という、僕にとってはじめての著作が関わっていたのです。</p>
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	<p><a href="http://www.amazon.jp/%E9%80%94%E4%B8%AD%E4%B8%8B%E8%BB%8A-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E6%96%87%E6%A8%B9/dp/4344406850%3FSubscriptionId%3D0Q5JKQGKGX1PM5K1CPG2%26tag%3Dhametuha-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4344406850" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51V3PRYWQ0L._SL160_.jpg" border="0" alt="" /></a></p>
	<p><a href="http://www.amazon.jp/%E9%80%94%E4%B8%AD%E4%B8%8B%E8%BB%8A-%E5%B9%BB%E5%86%AC%E8%88%8E%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%AB%98%E6%A9%8B-%E6%96%87%E6%A8%B9/dp/4344406850%3FSubscriptionId%3D0Q5JKQGKGX1PM5K1CPG2%26tag%3Dhametuha-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4344406850" target="_blank">途中下車 (幻冬舎文庫)</a></p>
	<p><em>著者／訳者：</em>高橋 文樹</p>
	<p><em>出版社：</em>幻冬舎( 2005-08 )</p>
	<p><em>定価：</em>￥ 480</p>
	<p>文庫 ( 168 ページ )</p>
	<p>ISBN-10 : 4344406850</p>
	<p>ISBN-13 : 9784344406858</p>
<hr class="tmkm-amazon-clear" /></div>
<p>僕が第1回幻冬舎NET学生文学賞という、もうすでに存在しない賞(まあ、僕が売れなかったからなんですが)を穫って、明確に職業作家への険しい道を進み始めた頃、彼は後述する理由を契機に絶交を決意していくようになったのでした。</p>
<p>この友情物語は多分に誤解を含んでいるけれども、創作者たらんとする今の僕にとって重要な問いを持っていると思ったので、彼の誤解を解くというよりは、自分でよく考えるためにも長々と書きたいと思います。</p>
<h4>途中下車の頃</h4>
<p>さて、三ツ野くんではなく、当時のように「三ツ野」と呼ぶことにしてと&#8230;&#8230;</p>
<p>まずはこれから誤解を解く準備をするという意味でも、三ツ野がどんな風にして僕たち仏文科の友人と絶交を決意するに至ったかを引用する。</p>
<blockquote><p>問題なのは、この主人公「ぼく」の大学の友人として、「陽介」という名前の童貞の文学青年が登場し、冒頭の合コンシーンで痛い言動を繰り返すことなのである。ちなみにわたくし、三ツ野陽介と申します。</p>
<p>百歩譲って、それだけならまだ許せる。しかし、この合コンシーン以来、出番のなかった脇役の「陽介」くんは、「ぼく」が妹の「理名」と近親相姦に足を踏み入れた終盤のクライマックス直後に再び召還され、「実は昨日、うちの陽介が亡くなったんです」という具合に、なんと自殺してしまうのである。いくら青春ドラマに「友人の自殺」が欠かせないからと言って、そこまでやるかと。</p>
<p>僕はこれを「ゾラ−セザンヌ問題」と呼んでいる。つまり、一九世紀フランスの作家ゾラは、友人で画家のセザンヌをモデルにして小説を書いたのだが、その作品の中で画家は夢破れて自殺してしまう。この小説を読んで傷ついたセザンヌは以後、ゾラと絶交したという。</p>
<p>それで僕もセザンヌにならって、高橋くんとすぐに絶交したかというと、実はそうでもなくて、「小説の印税が入ったから」とか言われて、飲み屋で高橋くんにおごられていた記憶もある。</p>
<p>しかし、それでも一応、「あの小説の終盤で、陽介という人物が自殺してしまうのはいかがなものか？」と彼に直接抗議したことはあった。そのときの彼の返答は、はなはだ要領を得ないもので、「そりゃあ、読者から、もっと幸せな結末にして欲しかったという感想をもらうことはあるよ」みたいなものだった。</p>
<p>ん？　なんか僕の抗議が、思い入れのあるキャラクターにハッピーエンドを望むファン心理みたいなものだと勘違いしてないか？　っていうか、あの「陽介」くんのモデルが僕だというのは、ただの自意識過剰なのか？　でも、あの小説に出てくる他の「大学の友人」にも、それぞれモデルがいることは、僕にはよく分かることであるし……。<a href="http://d.hatena.ne.jp/yazunami/20081106/1225974308"><cite title="過去に追われるミツノさん">過去に追われるミツノさん</cite></a></p></blockquote>
<p>彼が言うとおり「ゾラ-セザンヌ問題」は半分当たっていて、半分外れている。</p>
<ol>
<li>半分当たっているというのは、件の登場人物である「宇賀神陽介」のモデルが三ツ野陽介ではなく、別の陽介であること(三ツ野は彼のことを知らない-本郷には来なかったからだ)。</li>
<li>もう半分は、確かに僕は身の回りの人間をモデルにして小説を書くことが多々あること。</li>
</ol>
<p>彼が言う抗議の場面というのは、覚えがある。四谷だったか、西新宿だったか忘れたけれど、とにかく「魚や一丁」で僕は「途中下車」について「あんな風に書かれたくなかったよ」と抗議をされ、面食らったのだった。</p>
<p>僕が「宇賀神陽介」という人物を作中で自殺させたのは、それなりに理由があった。これに関しては彼が「途中下車」に加えた批評(?)に応える形で後述する。</p>
<p>僕は彼を「三ツ野」と呼んでいたから、彼が暗に前提としていたモデル問題に関する意識などサラサラなかった。彼の抗議は「文系大学院生がみんな自殺するみたいに暗く書いてほしくなかった」というように聞こえた。なぜこいつはいきなり文学青年代表みたいな顔をして抗議しているんだ？　純粋に、そう思った。</p>
<p>当時から東浩紀に傾倒していた三ツ野には、文学青年というよりも「批評ヲタ」といった印象を持っていた。当時の仏文にはもっと泥臭い文学青年がいて、畳張りの下宿で本だけに囲まれて暮らしていたりとか、緑罫のB5原稿用紙に書いた詩を朗読したりとか、化石のような学生がいた。そんな東大仏文にあって、モーニング娘や東浩紀やNAMの話をする三ツ野のことを、僕は文学青年だと思わなかった。後に本郷の仏文科ではなく、駒場の教養に進んだことからも、その確信は強まった。</p>
<p>彼が意識するほど、「トーダイ」は一枚岩ではなかった。もっと早くそこから出て行く人もいたし、出て行かざるを得ない人もいた。話もあまり通じなかった。そういう中で、みんななんとか対話を続けていた。</p>
<p>「批評ヲタ」であるはずの三ツ野が、「作家たるべき人間は書く行為にモラルがなければいけない」と熱弁を奮う。僕にはまったく理解ができなかった。仏文科の、とりわけ僕らの周囲では創作は実に粗朴に崇高だと思われていた気がする。創作と批評の優劣に関する議論さえあった。馬鹿の輪に加わるのが嫌だったのか、それとも単にシャイなのか、ともかく、そうした古色蒼然とした議論とは距離を置いていたはずの三ツ野が、文学青年代表のような顔をしている。「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/構造と力">構造</a>」や「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン・ボードリヤール">シミュラークル</a>」ではなく、「書くことの倫理」について批判している。ぼくは&#8221;ラーメンサラダ&#8221;を食べながら、変な義憤もあったもんだ、と訝っていた。三ツ野は宇賀神の側にいないのに、と。</p>
<blockquote><p>しかし、それでも一応、「あの小説の終盤で、陽介という人物が自殺してしまうのはいかがなものか？」と彼に直接抗議したことはあった。そのときの彼 の返答は、はなはだ要領を得ないもので、「そりゃあ、読者から、もっと幸せな結末にして欲しかったという感想をもらうことはあるよ」みたいなものだった。</p>
<p>ん？　なんか僕の抗議が、思い入れのあるキャラクターにハッピーエンドを望むファン心理みたいなものだと勘違いしてないか？　っていうか、あの「陽 介」くんのモデルが僕だというのは、ただの自意識過剰なのか？　でも、あの小説に出てくる他の「大学の友人」にも、それぞれモデルがいることは、僕にはよ く分かることであるし……。<a href="http://d.hatena.ne.jp/yazunami/20081106/1225974308"><cite title="過去に追われるミツノさん">過去に追われるミツノさん</cite></a></p></blockquote>
<p>ここで引用されているとおりならば、僕はよっぽど愚劣だが、彼は「陽介という人物が」とは言わなかった。明確に「三ツ野陽介をモデルにして宇賀神陽介を書くな！」とは言わなかったのだ。</p>
<p>今でも多分そうだと思うけれど、彼はおしゃべりだが、口下手だった(批評家＝パネリストではないから、これは別に批評家としての彼をくさして言うわけじゃない)。今何を議論しているのか、僕達は共有しないまま議論したわけだ。</p>
<p>僕が話をマジメに聞こうとしなかった、ということもあったかもしれない。</p>
<p>「途中下車」刊行当時、その内容にも関わらず、周囲の反応はおおむね好意的だった。が、もちろん批判をしてくる人はいる。特に文学に関して「おしゃべり」な人ほど批判の矛先が鋭く、「こいつらはきっと誉めちゃくれないだろうな」という予想は100%的中していた。</p>
<p>若くして本を出すとは、そういうことだ。大学在学中、それも文学部、さらに東大の仏文科で、しかも小説を出すとは。売れても売れなくても、その類のことは起きる。たぶん、売れたらもっとたくさんの友達を失っていただろう。それでも別に構わなかったが。</p>
<p>受賞当時、「おめでとう」の一言も言ってくれることはなく、「途中下車」について開口一番、「宇賀神の描かれ方」についてさして一貫しているとも思えない抗議をしてくる三ツ野も、そういう批判者の一人に見えた。ミツノータス、おまえもか。</p>
<p>なので、僕は三ツ野が問題にしたような愚劣な返答をした。議論するのも面倒だった。はいはい、高度に構造化されたクラインの壷的小説が書けなくてすいませんね、と。バルザックがあれほど沢山の小説を書いた後に、駄作を増やして悪かったですね、と。批評家きどりのクリシェには心底うんざりしていた。だったらお前らが書けよ、と思っていた(これは今も思っている)。</p>
<p>それきり絶交、とならなかったのは、三ツ野自身も書いているとおりだ。</p>
<p>その後も何度か話した。チャットをしていると、三ツ野は小説を書くと言い出した。次の群像に出す、と。彼は高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』や島田雅彦『天国が降ってくる』を挙げながら、新宿を舞台にした教養小説(ビルドゥングス・ロマン)を書くと言った。</p>
<p>「君が偉いのは、ゲシャ〔注：「途中下車」のこと〕を完成させたことだ」</p>
<p>小説はいかにあるべきか、ということを挙げながら、色々と「途中下車」を批判した後(あれは批評だったのかもしれない)、彼はそんなことをチャットに書き込んだ。もっと違った表現だったかもしれない。三ツ野が文学者として「途中下車を書いた高橋文樹」を誉めたのは、たぶんそれだけだったと思う。周囲にはもっと嫌なことを言う奴もいたから、まあ、ずいぶんマシな方だろう。</p>
<p>とにかく、その後、決定的な事件があって、三ツ野とは一切連絡がとれなくなった。僕はずっとその決定的な事件(といっても、本当に下らない&#8221;厨2&#8243;的な事件なのだが)を絶交の原因だと思っていたから、その事件を起こした当事者に向かって「おまえちょっとやりすぎだぞ」などとたしなめたり、意図せずして傍観者を決め込んでいた。今回ゼロアカで三ツ野が情報発信をするまで、このモデル問題に気づかなかった。</p>
<h4>途中下車の孕むモデル問題について</h4>
<p>三ツ野が問題としている「宇賀神陽介」という登場人物をなぜ書いたかについて、ちょっと説明したいと思う。自分で解説するのもバカげた話だが、モデル問題とあらば避けては通れないだろう。</p>
<p>まず、宇賀神陽介のキャラクターについて、僕が実際にモデルを想定して書いた点を箇条書きにする。あくまで自己申告なので、隠蔽の可能性が0だなとど言い切る心算はない。</p>
<ul>
<li>合コンで文学の話をするなどの「イタい」童貞文学青年</li>
<li>月に本代が5万円</li>
<li>二子玉川に家がある</li>
<li>家庭環境に問題がある</li>
</ul>
<p>この一つ一つについて典拠を示していこう。</p>
<dl>
<dt>合コンでイタい童貞文学青年</dt>
<dd> まず、合コンで「イタい」発言をするということ自体が、三ツ野にオリジナルな個性ではなかった。合コンでは「大学で何やってるの？」という話が出ることも当然あるし、その流れで文学の話などをすることも多かったように思う。毎度毎度イタい感じに受け止められるかというと、そうでもなく、時には面白がられることもあった。「東大男子」と合コンをするときに、「他大女子」が何を求めているか、という単純な想像力を働かせればいい。誰も彼もがイケメンのエグザイル・リスナーを求めているわけではない。「趣味は人間観察です」などとのたまう女子は、東大男子がさぞ興味深いだろう。夏目漱石を引用する宇賀神の姿がそれほど悪意のある描写だったろうか。これは僕の文体と筆力の問題かもしれないが。ちなみに、合コンの場で漱石の言葉を引用したのは他ならぬ僕自身であり、そんなに悪意をもって受け止められなかったと思う。たまたま三ツ野がそういうことをしたことがあったかどうかは知らないし、単に僕がKYすぎて気づかなかっただけなのかもしれない。あと、「途中下車」の年齢設定は明らかに東大の駒場時代(1-2年生&amp;僕と三ツ野が本郷で出会う前)で、その学年の東大生は童貞が多かった。僕は大学に入学したとき、昔に読んだPOPEYEの「大学別入学時非童貞率」という記事で東大が60%だったことに違和感を覚えており、身の回りでリサーチしたのだが、28人のうち約90%が童貞だった。 </dd>
<dt>本代が5万</dt>
<dd> また、月に本代が5万円というのは、これまた三ツ野とは別の友人である。ものすごい読書家で、現在のブログ書評内ではたくさんの人が読んでいるはずだ(と言ってしまうのもゾラ-セザンヌ問題的にリスキーだが)。フーコーの「言葉と物」を一時間に100ページぐらい読んでいた。「本代が月5万」というのは僕が大学に入ってすごく衝撃を受けたことの一つだったので、宇賀神のエピソードの一つとして拝借した。彼が「途中下車」に関して「言いたいことは山ほどあるけどさ」と言ったのは、モデル問題だったのかもしれない。 </dd>
<dt>二子玉川在住</dt>
<dd> 当時、二子玉川に住んでいたのはこれまた三ツ野ではない友人である。教育格差というものがずいぶん前から言われているけれど、その言葉を「問題」として知るまでもなく、東大には良家の子弟が多いことは明らかだった。親の職業もいわゆる大企業や官公庁が多かったし、家族に東大生がいるということも珍しくなかった。僕は直木賞作家の息子だということで、誤解されることがたまにあるのだが、裕福な子供時代を過ごしていないし、小中高と公立だ。東大生のアッパーミドル感は「二子玉川に住んでいて、中高一貫校出身」という友人の生い立ちに象徴されているように思えた。そういえば、彼の出身校は三ツ野と一緒だったっけ。 </dd>
<dt>家庭環境</dt>
<dd> 家庭環境に問題があるという点。これが今回この長ったらしい記事を書くにあたって一番重要なのだが、宇賀神陽介の暗い生い立ちのモデルとなるのは、この別の陽介である。人物造形は似ても似つかないが、家庭環境だけはこの陽介から借りた。「途中下車」を書いた頃には彼と音信不通になっていて、彼がどう思っているのかはわからない。 </dd>
</dl>
<p>今でも僕は不思議なのだが、なぜ三ツ野陽介は宇賀神陽介という登場人物を読んだときに、あれほど強い確信をもって「自分がモデルだ」と思ったのだろう。名前以外に根拠はあったのだろうか。</p>
<p>なんにせよ、一緒だったのはよくある「陽介」という名前だけであり(ちなみに、僕の親族にもいる)、端的に言って、名前を陽介としなければ、三ツ野が傷つくこともなかった。彼が何年も僕に恨みを抱き続けることはなかった。僕は宇賀神の名前を「陽一」とか「ヨースケ」とかにすればよかった&#8230;&#8230;</p>
<p>さて、三ツ野の取り上げたモデル問題について端的にまとめるとこうなる。</p>
<p><strong>「それ、勘違いなんだ。でも、不快にさせてゴメンね。早く言ってくれたらよかったのに」</strong></p>
<p>しかし、彼が僕を批判している理由のもう半分はまだ有効だ。実際の知人をモデルにするというのは事実であり、危険な行為であるかもしれないが、モデルを設定することはおそらく99%の作家がやっているだろうことであり、僕はそのことに対してどのように責任を取るべきか、わからないでいる。</p>
<h4>O君への手紙</h4>
<p>現在、「途中下車」はかろうじて幻冬舍文庫で手に入れることができるが、現在の形になるまで二回書き直されている。ちゃんと奥付に断りを入れてはあるが、 宮沢賢治ほど偉大な文学者ではないので、誰も気に留めていないというだけの話だ。以下に加筆・訂正履歴を書く。ちなみに、小説を直すときに加筆しかしない ということはあり得ないので、細かに修正した点もあるが、要点のみ記す。</p>
<ol>
<li><strong>受賞時(2001/3)</strong>：「途中下車」は120枚程度だった。ネットで投票対象となり、村上龍氏や唯川恵氏らに誉めていただいたのは、これのことである。この時、まだ宇賀神は死ななかった。はじめの合コンぐらいしか登場しなかったはずだ。</li>
<li><strong>単行本発刊時(2001/7)</strong>： 「途中下車」は70枚ほど加筆・訂正された。これは僕がそうさせて欲しいといったのだ。各社編集方針というのはあるだろうが、今のように「新人賞受賞作を 1000円のペラペラ本で」というメソッドが業界内で確立していなかったのか、割と歓迎された。そこで僕は宇賀神を自殺させるための長い一章を書き加えた。</li>
<li><strong>文庫化時(2005/8)</strong>：「途中下車」は50枚ほど加筆・訂正された。あらすじにはほとんど変化がなく、細かな修正が大半だったが、小説の印象としてはかなり変わるよう訂正しながら進めた。それまで物語の背景に行ってしまいがちだったが、そもそも「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/ロリータ">ロリータ</a>」を意識して書いたわけで、<strong>作品の通低音</strong>を救い上げようと苦心した。そのほとんどの労力は、宇賀神の死を際立てるため、そして「ぼく」の物語が宇賀神の生き方にそっと重なるように費やされている。もちろん、この苦心は誰にも評価されていないから、意味なかったのかもしれないし、単に失敗したのかもしれない。この頃は「暗殺者に対してピアノを弾いて抵抗する」という類の卓抜なユーモアも思いつかなかった。</li>
</ol>
<p>上の改訂履歴を読んで、「薄っぺらい本を水増しするために宇賀神を殺したんだな」と思う向きもあるだろう。実際に、三ツ野はこう評している。</p>
<blockquote><p>百歩譲って、それだけならまだ許せる。しかし、この合コンシーン以来、出番のなかった脇役の「陽介」くんは、「ぼく」が妹の「理名」と近親相姦に足を踏み 入れた終盤のクライマックス直後に再び召還され、「実は昨日、うちの陽介が亡くなったんです」という具合に、なんと自殺してしまうのである。いくら青春ド ラマに「友人の自殺」が欠かせないからと言って、そこまでやるかと。<a href="http://d.hatena.ne.jp/yazunami/20081106/1225974308"><cite title="過去に追われるミツノさん">過去に追われるミツノさん</cite></a></p></blockquote>
<p>「途中下車」が「友人の自殺」を必要とするような、ベタベタの「青春ドラマ」であるという評が不当だと思わない。三ツ野がそう読んだだろうことは、<cite title="http://d.hatena.ne.jp/yazunami/20081106/1225974308">「僕だったら「理名」でも「麗奈」でもなく「涼子」を採用しただろうけど」</cite>という一節からもわかる(そもそも「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/広末涼子">涼子</a>」では「<cite title="ドゥルーズ「プルーストとシーニュ」"><a href="http://www.amazon.co.jp/プルーストとシーニュ-増補版―文学機械としての失われた時を求めて-叢書・ウニベルシタス-ジル・ドゥルーズ/dp/4588000497">出会いの偶然</a>」</cite>が成り立たないのだが。これがあの有名な<a href="http://bungeishi.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/vspart1_3251.html">高橋-田中論争</a>か？)。</p>
<p>ただ、僕が必要としたのは「青春ドラマ」のドラマトゥルギーそのものではなく、「青春ドラマ」的にベタであることだった。いくら僕でも、「理名」がアイドルの「内山理名」から、「麗奈」が「田中麗奈」から取られたことにみんなが気づかないと思いほどバカではなく、ちゃんとみんなが気づくようにそのままの表記にしたわけである。</p>
<p>幻冬舍NET学生文学賞はその特性から、掲示板が公開されて、誰でも意見を書き込めるようになっていた(ちなみに、今Web業界に就職して業界標準価格などを知ってみると、幻冬舍はちゃんと本腰を入れてあの賞やっていたんだと思う)。僕はネット投票の段階で一位だったのだけれども、掲示板投稿者の中には「アハッとか笑う女はいない」とか、「アイドルから名前取るなんてイタい」という類の、ある意味ピュアな書き込みが散見された。</p>
<p>「これはまったくもって伝わっていない！」と感じた僕は、受賞後、加筆を申し出た。僕が「途中下車」に込めようとした<strong>文学的意義</strong>(と、あえて言う)は、主人公が<strong>大文字の文学</strong>から出て行って、<strong>「妹とやっちゃったお兄ちゃん」という陳腐の十字架を背負って生きる</strong>決意する小説を書くだけでは伝わらないのだ。<strong>大文字の文学</strong>を象徴する人物に死んでもらわなければ駄目なのだ。</p>
<p>他にうまい方法があったらそうしただろう。だが、当時は「あえてベタに死ぬ」という方法以外は思いつかなかった。宇賀神が最後に残したものが「陳腐な自由詩」と「<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/ポール・エリュアール">エリュアール</a>の引用」でしかなかったこと、彼が死の代償に手に入れようとしたものが「自由」でしかなかったということ。そして、「ぼく」はその後に<strong>陳腐の十字架を背負って生きる</strong>決意をする。そんな小説にするために、宇賀神は自殺させられたのだった。</p>
<p>「2001年に決断主義とかいって(wr」とか「ちょ、今時そのサバイブ感wwww」という反応〔©<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/宇野常寛">宇野常寛</a>〕を呼び起こしそうな創作秘話だが、今でも間違っているとは思っていない。</p>
<p>と、自作について恥ずかしげもなく解説しまくったわけだが、モデルとなったO君の名前をそのまま使った理由は、当人への目配せのようなものだった。「O君がこれを読んで、気づいてくれたらいいな」と無邪気に思っていたわけである。クラス名簿を見て実家にまで電話したが、連絡は取れなかったO君と、小説で繋がることがある。僕が処女作に込めた色んな思いの一つがそれだった。</p>
<p>結果的に、O君が傷ついたのかどうかは知らない。彼は僕が「途中下車」を書くずっと前に、姿を消した。大学へも来なくなった。どこかで読んで怒っているのかもしれないし、もしかしたら、死んでいるのかもしれない。彼にはそう思わせる雰囲気があった。彼が眠っている友人のアゴをライターで燃やしたとき、そう感じた。</p>
<h4>書くことの倫理は安全運転なのか</h4>
<p>書いても傷つかない人もいる。そして、傷つけない書き方がある。思わぬところで傷つけることもある。あと、死んでいたら傷つかないし、書かれた人が読まなかったら傷つかない。また、そもそもモデルが存在することを隠蔽することだってできる。</p>
<p>書くことは車の運転に似ているのだけれども、どんな態度を取ったらいいのか、悩むところだ。仮に僕がどれだけ真剣な想いを込めて書こうが、そんなものは関係ないわけで、読む側に準備がなければ怪我をする。</p>
<blockquote><p>受賞作「アウレリャーノがやってくる」（『新潮』 2007年11月号）を読んでみると、『途中下車』の頃とはずいぶん作風が変わったなと感じたけど、身の回りの人間をモデルに登場人物を造型する傾向は昔と変わっていないようだった。つまりそのモデルが「破滅派」なわけで、「危ない危ない。あのまま彼らと仲良くして『破滅派』に入っていたら、また自殺させられるところだった」と僕は胸をなで下ろしたのである。<a href="http://d.hatena.ne.jp/yazunami/20081106/1225974308"><cite title="過去に追われるミツノさん">過去に追われるミツノさん</cite></a></p></blockquote>
<p>『アウレリャーノ』に関しては「アマネヒト以外はすべて実在する」ことに意味があった。個人的には「実際に存在するWeb同人誌を題材にした小説が新人賞を取る」ということはものすごい大事件だったし、はっきりいって、そういう小説を一つでも持っている同人誌はとてつもなく幸福だとさえ思ったのだが、世間ではそうではなかったようだ。<a href="http://takahashifumiki.com/literature/hametuha/330">自分のブログ</a>でも書いたが、Web空間では大したことではなかったようだし、文壇でも大事件にはならなかった。我ながら読みが甘すぎて、幸福な晩年を迎えるとしか思えない。</p>
<p>もちろん、『アウレリャーノ』を書くときは、読んだ破滅派同人が傷つかないように気をつけてはいた。あまり悪くかかれている人はいないし、まあ、大人の事情でいえば、出版しても差し止めにならない程度にはなっているだろう。もしかしたら傷ついた人もいたのかもしれないが、破滅派のためを思って涙を飲んでくれたのかもしれない。</p>
<p>が、結局のところ、それは見事に安全運転をしたということでしかない。</p>
<p>問題は、僕のような人間がどれだけ書くことの「権力」に自覚的になれるかということと、そして、「それを遵守したところではたしていい作家になれるのかという疑問を持っているからどうせ『権力』をふりかざすんじゃないか」という問いである。</p>
<p>作家はとかく倫理を問われるというのは常日頃感じる。が、人格完成を目指す私小説作家になることも、芸として確立してしまっている露悪的私小説作家になることも、等しく今更感が漂うし、<cite title="坂口安吾「文学のふるさと」"><a href="http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html">文学のふるさと</a></cite>にも戻れない。人畜無害な小説を書いて、無邪気な「職業作家」でいることもよしとしない。</p>
<p>結局のところ、作品で見せるしかなく、僕はとっとと受賞第一作を「新潮」誌上に発表すればいいわけだ。できれば「書くことの倫理」についてこのブログである程度の答えを出したかったが、無理でした。</p>
<p>なんにせよ、三ツ野が突然「途中下車」に関して言及したことはよかった。それはATフィールドを張っていたシンジ君が外に出てきたというだけのことではなく、三ツ野がゼロアカを勝ち抜いたことで、遠慮なく対等な立場で意見を交わすことができるためである。自分のブログを立ち上げた苦労が、今この瞬間に報われた気がする。</p>
<hr />追伸。以下は私信です。</p>
<p> </p>
<p> </p>
<p>三ツ野へ。とりあえず、第四関門復活できて、おめでとう。僕はゼロアカの<a href="http://literaryspace.blog101.fc2.com/">松平さん</a>と<a href="http://d.hatena.ne.jp/syusei-sakagami/">フランス乞食さん</a>が破滅派に言及していたということ以外は何も知らないので、君が勝てば嬉しい。他の人が勝っても、「へえ、そうなんだ、面白そうだったら読んでみよう」としか思わないから。君の本が出たら、つまらなくても読むだろう。君が僕にそうしてくれたように。</p>
<p>そして、今回は破滅派お買い上げありがとう。でも、三号を読んだら君にまた絶交されるかもしれない。トッチィ・メルは<strong>アイツ</strong>だよ。君は「トッチィ・メル」という偽名を卑怯だと思うかもしれないし、掲載許可を出しといてなんだが、僕もそう思う。だが、その偽名こそ彼が作家になれなかった証左だと思って許してやってほしい。才能があっても作家にはなれないということが、本当にあるんだよ。そういう奴は何人もいた。そして、破滅派はそういう人のための場所でもある。「自分が破滅派に客を呼べるようになったら」なんてセコいことは考えてくれなくてもいい。</p>
<p>あと、ついでだが、もし東浩紀氏が間違って破滅派三号を読んで怒るようなことがあったら、代わりに謝っておいてくれ。僕はこのたびはじめて<a href="http://www.hirokiazuma.com/">東氏のポータルサイト</a>を見たが、トップページの写真を見て、トッチィ・メルの文章に怒る人なのか、それともすべてはネタと受け流す人なのか、それとも&lt;SELECT * FROM otaku WHERE category=&#8217;moe&#8217;;&gt;というデータベースな人なのか、よくわからなかった。</p>
<p>そして、最後に。「いじめのような扱いを受けた」なんて恥知らずなことはもう言うな。自分は人を傷付けていなかったなんて、彼らの生き様を否定しなかったなんて、もう二度と思うな。「書くことの倫理」について、語ったんだから。</p>


<p>No related posts.</p>]]></content:encoded>
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		<title>ディエゴ・マラーニ『通訳』を読んでやる気を出してみる。</title>
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		<pubDate>Sun, 05 Oct 2008 16:42:28 +0000</pubDate>
		<dc:creator>高橋文樹</dc:creator>
				<category><![CDATA[創作]]></category>
		<category><![CDATA[文芸活動]]></category>
		<category><![CDATA[読書日記]]></category>
		<category><![CDATA[イタリア文学]]></category>
		<category><![CDATA[言語]]></category>

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		<description><![CDATA[今書いている小説は、言語に関するものです。が、ぜんぜんはかどりません。というのは、最近よく感じることなんですが、脳味噌が小説向きの動き方をしていないのです。
偉そうな意見ではありますが、小説を書くには、小説向きの思考にな [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>今書いている小説は、言語に関するものです。が、ぜんぜんはかどりません。というのは、最近よく感じることなんですが、脳味噌が小説向きの動き方をしていないのです。</p>
<p>偉そうな意見ではありますが、小説を書くには、小説向きの思考になっていなくてはなりません。よく言われるように、とつぜん天啓が降りてきて書けるわけではなく、アスリートが「なんだか今日は調子がいい」と思うように、スラスラと小説を書けるときが来るのです。</p>
<p>で、最近の日常は創作とは程遠く、端的に机の前に座ってじっくりと考える時間が少ないからのような気がします。こうやってWebサイトを作り、情報を発信していくことを重要だとは思いますが、なによりも内容を作らなくてはしょうがないわけです。</p>
<p>日々追い立てられることがあって、ものすごく待望されているという状況にもなれないまま、小説を産みだして行くのは難しいなあと感じる今日この頃です。心は焦り、焦るからこそ凡庸な思考しか出てこないという悪循環。</p>
<p>そういうときに役立つのは他人の書いた小説を読むこと。</p>
<p>しかしながら、一日に一冊読むような時間も取れないし、取材のために読んでいる本がとても大いので、ちょっとずつしか読めません。いま読んでいるのはこれ。</p>
<div class="tmkm-amazon-view">
	<p><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%80%9A%E8%A8%B3-%E6%B5%B7%E5%A4%96%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%82%B4-%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B/dp/4488016480%3FSubscriptionId%3D0Q5JKQGKGX1PM5K1CPG2%26tag%3Dhametuha-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4488016480" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41IN5eWVofL._SL160_.jpg" border="0" alt="" /></a></p>
	<p><a href="http://www.amazon.co.jp/%E9%80%9A%E8%A8%B3-%E6%B5%B7%E5%A4%96%E6%96%87%E5%AD%A6%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%82%B4-%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B/dp/4488016480%3FSubscriptionId%3D0Q5JKQGKGX1PM5K1CPG2%26tag%3Dhametuha-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4488016480" target="_blank">通訳 (海外文学セレクション)</a></p>
	<p><em>著者／訳者：</em>ディエゴ マラーニ</p>
	<p><em>出版社：</em>東京創元社( 2007-12 )</p>
	<p><em>定価：</em>￥ 2,415</p>
	<p>単行本 ( 270 ページ )</p>
	<p>ISBN-10 : 4488016480</p>
	<p>ISBN-13 : 9784488016487</p>
<hr class="tmkm-amazon-clear" /></div>
<p>これはまあ、変な本なんですが、作者のディエゴ・マラーニという人がもっと変です。EUの通訳をやっていたときに、ユーロパントという人工言語を考案して、それで短編集を出したりしたそうです。</p>
<p>そんな短編集を出せるということは、すなわちヨーロッパ諸語がすべて近しいものだからでしょう。スペイン人とイタリア人同士がお互いの言っていることをなんとなく理解できるのもそうだし、文法の基本はほとんど一緒。津軽弁と沖縄弁ほどは違わない、と言っても過言ではないでしょう。</p>
<p>とはいえ、やはりこの人の小説に対する着想は卓抜しているし、それで小説を構成できるのはやはり凄いと思います。小説というのは、言葉に寄り添って創られるものだからこそ、言葉そのものを題材にするのは難しくかんじます。</p>
<p>ちなみに、ぼくは「キャラクターが動き出して物語が勝手に展開されていく」という言を信じていません。また、そういうことを言う小説家で尊敬できる人が一人もいなかったからです。</p>
<p>なんにせよ、小説を書くための生活を手に入れようとしすぎて、小説が書けなくなってしまうという今のジレンマをなんとかすべきですね。兼業作家はどうやって書いているのか、ほんとに気になります。</p>
<h4>追記</h4>
<p>読了しました。設定はやや衒学的ですが、途中から馬鹿ミステリーっぽい展開になってなかなか楽しめました。最近読んだ小説の中では出色の出来でした。ユリイカで若島正さんが進めていたんですが、氏の博学には敬服します。</p>
<div class="tmkm-amazon-view">
	<p><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%82%AB2008%E5%B9%B43%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E7%89%B9%E9%9B%86-%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%96%87%E5%AD%A6/dp/4791701755%3FSubscriptionId%3D0Q5JKQGKGX1PM5K1CPG2%26tag%3Dhametuha-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4791701755" target="_blank"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/517hpd-COML._SL160_.jpg" border="0" alt="" /></a></p>
	<p><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%82%AB2008%E5%B9%B43%E6%9C%88%E5%8F%B7-%E7%89%B9%E9%9B%86-%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%96%87%E5%AD%A6/dp/4791701755%3FSubscriptionId%3D0Q5JKQGKGX1PM5K1CPG2%26tag%3Dhametuha-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4791701755" target="_blank">ユリイカ2008年3月号 特集=新しい世界文学</a></p>
	<p><em>出版社：</em>青土社( 2008-02 )</p>
	<p><em>定価：</em>￥ 1,300</p>
	<p>ムック ( 245 ページ )</p>
	<p>ISBN-10 : 4791701755</p>
	<p>ISBN-13 : 9784791701759</p>
<hr class="tmkm-amazon-clear" /></div>


<p>Related posts:<ol><li><a href='http://takahashifumiki.com/literature/367/' rel='bookmark' title='Permanent Link: 「対談・日本語の危機とウェブ進化」について思ったこと'>「対談・日本語の危機とウェブ進化」について思ったこと</a></li>
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<li><a href='http://takahashifumiki.com/literature/397/' rel='bookmark' title='Permanent Link: 文学と政治の距離感はもうちょっと近くてもいいと思った'>文学と政治の距離感はもうちょっと近くてもいいと思った</a></li>
</ol></p>]]></content:encoded>
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		<title>ルビがルビーのことだったとは……</title>
		<link>http://takahashifumiki.com/literature/74/</link>
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		<pubDate>Sun, 14 Sep 2008 16:38:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>高橋文樹</dc:creator>
				<category><![CDATA[創作]]></category>
		<category><![CDATA[文芸活動]]></category>
		<category><![CDATA[ブラウザ]]></category>
		<category><![CDATA[日本語]]></category>

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		<description><![CDATA[現在執筆中の小説のネタ探しの過程で知ったんですが、文字に振る「ルビ」って、宝石の「ルビー」を語源に持っているんですと。
昔は字の級数を宝石の名前で表していて、「ダイヤモンド」とか「パール」とかがあり、その中で5.5ポイン [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>現在執筆中の小説のネタ探しの過程で知ったんですが、文字に振る「ルビ」って、宝石の「ルビー」を語源に持っているんですと。<br />
昔は字の級数を宝石の名前で表していて、「ダイヤモンド」とか「パール」とかがあり、その中で5.5ポイントを表す「ルビー」だけが残ったそうな。</p>
<p>ときに、こういうブログなんかでは全然ルビが触れなくて、（）でカッコ書きをするのがせいぜいだけども、カッコはカッコで他の使い方があるし、なにより日本人は「漢字とルビを同時に読む」という世界に類を見ない異常な読解力を持っているわけです。</p>
<p>ぼくは現在、「ブログ縦書き化計画」を企てていますが、縦書きやルビを表示できるのはMicrosoftのInternet Explorerだけ。オープンソースを謳っているFirefoxも、誇り高き少数派であるMacのSafariも対応していません。Googelから出たChromeも多分対応してないと思う。<br />
あれだけ独占的だと嫌われたMicrosoft社が一番日本語の特性を生かしている というのは、皮肉といえば皮肉ですね。</p>
<p>ところで、ルビがなくなると（より正確には「日本人にとってルビが読みやすくなくなると」）どういうことになるのか。</p>
<blockquote><p>お蔦と二人が毒蛇に成って、可愛いお妙さんを守護する覚悟よ。見ろ、あの竜宮に在る珠は、悪龍が絡い繞って、その器に非ずして濫りに近づく者があると、呪殺すと云うじゃないか。<br />
呪詛われたんだ、呪詛われたんだ。お妙さんに指を差して、お前たちは呪詛われたんだ。<br />
<cite><em>泉鏡花</em>、『婦系図』、新潮文庫、2000年、p.411 </cite></p></blockquote>
<p>とまあ、非常に読みづらいわけです。「のろう」を「呪詛う」と書いたり、「蛾」を「ひとりむし」と読ませたりするあたりが、泉鏡花の面白いところなんですが、ルビがなくなるとその魅力は半減どころか、ほとんど苦行になりますね。懐かしの『特攻の拓』もぜんぜん「ぶっこみ」とは読めなくなってしまいます。</p>
<p>もっとも、泉鏡花は当時から難しかったと里見惇がどこかで書いていたから、消えゆく運命なのかもしれないけど、なんか淋しい気もします。ちなみに、この「運命」は「さだめ」と読みます。</p>


<p>Related posts:<ol><li><a href='http://takahashifumiki.com/literature/367/' rel='bookmark' title='Permanent Link: 「対談・日本語の危機とウェブ進化」について思ったこと'>「対談・日本語の危機とウェブ進化」について思ったこと</a></li>
<li><a href='http://takahashifumiki.com/literature/17/' rel='bookmark' title='Permanent Link: 水村美苗の「日本語が亡びるとき」を読んだ'>水村美苗の「日本語が亡びるとき」を読んだ</a></li>
</ol></p>]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>クノー『はまむぎ』読解―その多層構造とジレンマ―</title>
		<link>http://takahashifumiki.com/literature/55/</link>
		<comments>http://takahashifumiki.com/literature/55/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 05 Sep 2008 18:01:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>高橋文樹</dc:creator>
				<category><![CDATA[創作]]></category>
		<category><![CDATA[文芸活動]]></category>
		<category><![CDATA[フランス文学]]></category>
		<category><![CDATA[言語]]></category>
		<category><![CDATA[評論]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://takahashifumiki.com/?p=55</guid>
		<description><![CDATA[目次


序


『はまむぎ』の四つの特徴

反レアリスム的態度
登場人物達の哲学的思索
新フランス語
様々なナラシオンの使用



レーモン・クノーの個人的な理由

レアリスムの向こう側へ
哲学の口語訳
小説による言語 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<h3>目次</h3>
<ol>
<li>
<h4>序</h4>
</li>
<li>
<h4>『<strong>はまむぎ</strong>』の四つの特徴</h4>
<ol>
<li>反レアリスム的態度</li>
<li>登場人物達の哲学的思索</li>
<li>新フランス語</li>
<li>様々なナラシオンの使用</li>
</ol>
</li>
<li>
<h4>レーモン・<strong>クノー</strong>の個人的な理由</h4>
<ol>
<li>レアリスムの向こう側へ</li>
<li>哲学の口語訳</li>
<li>小説による言語改革</li>
<li>ナラシオンの百科全書</li>
</ol>
</li>
<li>
<h4>『<strong>はまむぎ</strong>』の読み方／読まれ方</h4>
<ol>
<li>表層に留まる読み</li>
<li>深層に至ろうとする読み</li>
<li>表層と深層の間で</li>
</ol>
</li>
<li>
<h4>結語</h4>
</li>
</ol>
<h3>書誌</h3>
<ol>
<li>
<h4>レーモン・<strong>クノー</strong>（Queneau, Raymond）の著作</h4>
<ul>
<li><em>Le Chiendent</em>, Édition publiée sous la direction d’Henri Godard,Gallimard, ≪Bibliothèque de la Pl?iade≫, vol.Ⅱ,2002.</li>
<li>T<em>echnique du roman</em>, Édition publiée sous la direction d’Henri Godard,Gallimard, ≪Bibliothèque de la Pléiade≫, vol.Ⅱ, 2002.</li>
<li>「<strong>はまむぎ</strong>」、白水社、2001（滝田文彦訳）.</li>
</ul>
</li>
<li>
<h4>レーモン・<strong>クノー</strong>に関する研究書</h4>
<ul>
<li>Dobo,Frank: [<em>La petite histoire…du≪chiendent≫</em>], in Raymond Queneau L’Herne,No.29, 1999, pp.324-327.<br />
岩松正洋、「<em>読みの慣習と『最小離脱』</em>」、『岡山大学文学部紀要』、28号、1997、pp.145‐157.</li>
<li>小幌谷友二、「<strong>クノー</strong>の『ネオ・フランセ（Néo-Français）』について」、『中大仏文研究』、30号、1998、pp.65-88。</li>
<li>中里まき子、「<em><strong>クノー</strong>『地下鉄のザジ』論</em>」、『仏語仏文学研究』、23号、2001、pp.75-98.</li>
</ul>
</li>
<li>
<h4>一般的な参考書</h4>
<ul>
<li>イタロ・カルヴィーノ、『<em>なぜ古典を読むのか</em>』、みすず書房、1997（須賀敦子訳）。</li>
<li>デカルト、『<em>方法序説</em>』、岩波文庫、1997（谷川多佳子訳）。</li>
<li>テリー・イーグルトン、『<em>新版文学とは何か</em>』、岩波書店、1997（大橋洋一訳）。</li>
<li>ピエール・マシュレ、『<em>文学生産の哲学―サドからフーコーまで―</em>』、藤原書店、1994（小倉孝誠訳）</li>
<li>ヘーゲル、『<em>歴史哲学講義（上・下）</em>』、岩波文庫、1994（長谷川宏訳）。</li>
<li>ヘーゲル、『<em>精神現象学（上・下）</em>』、平凡社ライブラリー、1997（樫山欽四郎訳）。</li>
<li>ロジェ・カイヨワ、『<em>遊びと人間</em>』、講談社学術文庫、1990（多田道太郎・塚崎幹夫共訳）。</li>
</ul>
</li>
</ol>
<h3>序</h3>
<p>レーモン・<strong>クノー</strong>の処女小説『<strong>はまむぎ</strong>』<a href="http://takahashifumiki.com/?p=55&amp;page=6">1</a>とは一体何なのか。小説を読んだ後にこのような問いを発するのは、この作品に限っては、まったく愚かなことではない。そこにはあらゆる要素が詰め込まれており、一体自分は何を読んだのか、容易には理解できないのだ。あらすじですら、すでにカオスである。ためしに、物語を要約してみよう。</p>
<p>平凡な銀行家のエティエンヌ・マルセルは帽子屋のショーウィンドウでおもちゃのアヒルを見かけたことから、存在の認識についての考察を始める。そんなある日、金持ちの遊興青年ピエール・ル・グランと知り合い、彼の中に認識のヒントを見出そうとする。さらに、郊外からパリへと向かう電車の中から見た「フリット」という看板に目を止め、そのカフェへと向かう。そこで彼はカフェの主人ドミニク・ベロテルから、自分の息子テオがある男に殺されようとしているのを知る。その男は、ドミニクの弟サチュルナンの宿に下宿している、失業中の音楽家ナルサンスであり、彼はエティエンヌの妻アルベルトに恋をしたため、テオと喧嘩になる。結局殺人は未遂に終わるが、テオは行方不明になる。その後、テオは見つかるが、その際、ドミニクの息子クロヴィスエがティエンヌの言葉を聞き間違え、叔母のクロシュ夫人にある報告をする――カフェの常連客である古物屋のトープ爺さんは大変な財産を持っていて、それを青い扉の裏に隠しているらしい。クロシュはある計画を立てる。カフェの女中エルネスティーヌをトープと結婚させよう。その財産奪取計画に、エティエンヌとピエール、ナルサンスとサチュルナンの二組が加わる。最終的に、ナルサンス達が青い扉を勝ち取るが、結局財産など存在しないことが分かる。そして、戦争が起きる……。</p>
<p>あらすじにすればこのようになるが、それで小説のすべてを明らかにしたことにはならない。エピソードが時にあらすじよりも重要になることがあるのだ。事実、この小説は何か一つのものを中心に展開していくのではなく、エピソードの集積によって成り立っている。それは『<strong>はまむぎ</strong>』という嘲弄的なタイトル<a href="http://takahashifumiki.com/?p=55&amp;page=6">2</a>からもわかる（ちなみに、「<strong>はまむぎ</strong>」という言葉は作中一度も出てこない――ちょうど、ザジが一度も地下鉄に乗らないように）。このように混沌とした様相を呈する小説に対して、一体どのような読みを試みればいいのだろうか？</p>
<p>その答えの一つとして、それぞれの意味層をゆっくり「解読」し、すべての意味を明らかにしていくという方法がある。あとで明らかにするように、『<strong>はまむぎ</strong>』はいくつかのテクストを前提としている。それらのテクストを参照することで、「解読」はある程度可能になる。それはかなりストイックな作業であり、『はまむぎ』それ自体よりもはるかに多くのテクストを必要とする。</p>
<p>もう一つの答えは、まるで『<strong>はまむぎ</strong>』が閉じられたテクストでもあるかのようにして読むということである。現実的に、ほとんどの読者は、小説を「解読」するために他のテクストを参照するということをしない。もちろん、「解読」はするだろうが、あくまで自分の「百科全書」つまり、すでに自分が知っていることを参照して「解読」するだけである。そのような態度は、まさにテクストを閉じられたものとして捉える態度に他ならない。</p>
<p>このように、大きく分けて二つの読みがあるわけだが、どちらの読みを『<strong>はまむぎ</strong>』に対して行っても、特に問題はないだろう。したがって、本論では、まず、二つの読みを許容する『<strong>はまむぎ</strong>』という小説の特徴を明らかにし、続いて、そのような特徴がいかにして盛り込まれたのか、さらに、『<strong>はまむぎ</strong>』はどのようにして読まれ得るか、ということについて考察を繰り広げたい。そして、最終的には『<strong>はまむぎ</strong>』という小説を現代に読むことに意味はあるのか、という問いに対する一つの答えを出したい。</p>


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		<title>水村美苗の「日本語が亡びるとき」を読んだ</title>
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		<pubDate>Sat, 09 Aug 2008 15:56:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>高橋文樹</dc:creator>
				<category><![CDATA[創作]]></category>
		<category><![CDATA[文芸活動]]></category>
		<category><![CDATA[読書日記]]></category>
		<category><![CDATA[日本語]]></category>
		<category><![CDATA[言語]]></category>

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		<description><![CDATA[今のところ、僕の家には毎月文芸誌『新潮』が送られてくる。文芸誌というのは、なかなかボリュームがあり、目を通さないまま放っておいてしまうこともしばしばだけれど、今月送られてきた『新潮2008年9月号』には同世代の作家として [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>今のところ、僕の家には毎月文芸誌『新潮』が送られてくる。文芸誌というのは、なかなかボリュームがあり、目を通さないまま放っておいてしまうこともしばしばだけれど、今月送られてきた『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html?ie=UTF8&amp;location=http%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%25E6%2596%25B0%25E6%25BD%25AE-2008%25E5%25B9%25B4-09%25E6%259C%2588%25E5%258F%25B7-%25E9%259B%2591%25E8%25AA%258C%2Fdp%2FB001D16GDK%2F&amp;tag=hametuha-22&amp;linkCode=ur2&amp;camp=247&amp;creative=1211">新潮2008年9月号</a><img style="border:none !important; margin:0px !important;" src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=hametuha-22&amp;l=ur2&amp;o=9" border="0" alt="" width="1" height="1" />』には同世代の作家として気になる青木淳吾の「このあいだ東京でね」という中篇が発表されていたので、読んでみようと思って三軒茶屋のドトールに携えて行った。</p>
<p>ところが、実際に読んだのは<em>水村美苗</em>の「<strong>日本語が亡びるとき</strong>――英語の世紀の中で」という長編評論で、これが色々と考えさせられて面白かった。掲載されていたのは本編7章のうち冒頭3章で、秋には筑摩書房から発売するらしい。買おうと思う。</p>
<h4>簡単な説明</h4>
<p>「<strong>日本語が亡びるとき</strong>」という挑発的なタイトルは、著者の水村氏のバックグラウンドによる。</p>
<blockquote><p>ご存知の方もいるかもしれないが、私は十二歳で父親の仕事で家族とともにニューヨークに渡り、それ以来ずっとアメリカにも英語にもなじめず、親が娘のためにともってきた日本語の古い小説ばかり読み日本に恋いこがれたまま、なんと二十年もアメリカに居続けてしまったという経歴の持ち主である。<cite>水村美苗、「日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で」、『新潮』2008年9月号所収、新潮社、P.128</cite></p></blockquote>
<p>「<strong>日本語が亡びるとき</strong>」は水村氏がIWP(International Writing Program)という国際作家の交流プログラムに参加するところから始まって、大江健三郎の『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html?ie=UTF8&amp;location=http%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%25E3%2580%258C%25E9%259B%25A8%25E3%2581%25AE%25E6%259C%25A8-%25E3%2583%25AC%25E3%2582%25A4%25E3%2583%25B3%25E3%2583%25BB%25E3%2583%2584%25E3%2583%25AA%25E3%2583%25BC-%25E3%2580%258D%25E3%2582%2592%25E8%2581%25B4%25E3%2581%258F%25E5%25A5%25B3%25E3%2581%259F%25E3%2581%25A1-%25E6%2596%25B0%25E6%25BD%25AE%25E6%2596%2587%25E5%25BA%25AB-%25E5%2581%25A5%25E4%25B8%2589%25E9%2583%258E%2Fdp%2F4101126151%3Fie%3DUTF8%26s%3Dbooks%26qid%3D1218295399%26sr%3D1-4&amp;tag=hametuha-22&amp;linkCode=ur2&amp;camp=247&amp;creative=1211">雨の木（レインツリー）を聞く女たち</a><img style="border:none !important; margin:0px !important;" src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=hametuha-22&amp;l=ur2&amp;o=9" border="0" alt="" width="1" height="1" />』のように思えるのだけれど、主旨としてはサブタイトルにもあるように、英語の一極集中主義の時代における日本文学のあり方についての評論である。</p>
<h4>考えたこと</h4>
<p>僕は大学時代に言語学の授業を取っていて、そのときに<em>言語帝国主義</em>について学んだ。藤原書店から出ていた『<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/redirect.html?ie=UTF8&amp;location=http%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%25E8%25A8%2580%25E8%25AA%259E%25E5%25B8%259D%25E5%259B%25BD%25E4%25B8%25BB%25E7%25BE%25A9%25E3%2581%25A8%25E3%2581%25AF%25E4%25BD%2595%25E3%2581%258B-%25E4%25B8%2589%25E6%25B5%25A6-%25E4%25BF%25A1%25E5%25AD%259D%2Fdp%2F4894341913%3Fie%3DUTF8%26s%3Dbooks%26qid%3D1218295754%26sr%3D1-1&amp;tag=hametuha-22&amp;linkCode=ur2&amp;camp=247&amp;creative=1211">言語帝国主義とは何か</a><img style="border:none !important; margin:0px !important;" src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=hametuha-22&amp;l=ur2&amp;o=9" border="0" alt="" width="1" height="1" />』という本を買い、まとまらないなりに、日本語で文学をやることの意味について考えた憶えがある。「<strong>日本語が亡びるとき</strong>」はその頃からストップしていた思考をもう一度考えさせてくれる評論だった。</p>
<p>「<strong>日本語が亡びるとき</strong>」のテーマはIWPに関して言及している以下の一節に象徴されている。</p>
<blockquote><p>私はくり返し思った。<br />
人はなんとさまざまな条件の元で書いているのであろうか。<br />
だが、さらにくり返し思った。<br />
人はなんとさまざまな言葉で書いているのか。<br />
そして、その思いは、作家たちと一緒にいるあいだに、どんどんと深まるばかりであった。人が地球のあらゆるところで書いていたり、金持ちの国でも貧乏な国でも書いていたり、言論の自由を抑圧されながら書いていたりする事実には、しだいに慣れていった。だが、人がかくもさまざまな言葉で書いているという事実は、最後まで驚きであった。<cite>前掲書、P.145</cite></p></blockquote>
<p>そもそも僕は言葉で書くということについて、深く考えたいと思っていて、実際に深く考えていたつもりだった。で、四年ほど前、実際に書くことに関する小説を書いた。それはまだ陽の目を見ていないが、いつか出版できたらと考えているぐらい大事な小説だ。</p>
<p>ところが、最近はWebの勉強ばかりしていて、書くことという自分にとってのっぴきならないことについて考えることを忘れていた。「<strong>日本語が亡びるとき</strong>」は僕に考えることを促し、以下のような問いを思い出させてくれた。</p>
<ul>
<li><q>多重言語者</q>（<cite>前掲書</cite>より借用）の知識人という像はいまなお有効なのだろうか？　そしてまた、小説家がそのタイプの知識人を兼ねることは、現代において有効なのだろうか？</li>
<li>言語の多様性を守ることはほんとうに人間にとって幸せなことなのだろうか？</li>
<li><q>亡びゆく日本語</q>（<cite>前掲書</cite>より借用）を母語とする人間はどのような文学的営みを続けるべきなのだろうか？　美学を貫く保守主義者としてか、それとも悲壮な融和主義者としてか？</li>
<li>たとえばカフカのように言語的分裂を経験していない自分（カフカはユダヤ人だが、イディッシュ語ではなくドイツ語で書いた）がそうした問いを問うことに意味はあるのだろうか？</li>
<li>数学のように<q>普遍語</q>（<cite>前掲書</cite>より借用）たらんとするWebのプログラミング言語（PHPとかJavascriptとか）を勉強するのは、自分にとって危険なことじゃないか？</li>
</ul>
<p>とまあ、大体以上のようなことを考えたわけだが、ひさびさに実りある読書となった。とりわけ、この本を読んだ日にバイリンガルの外国人と話をしたことも、思考を促すきっかけとなったのかもしれない。うーん、今後の身の降りについても、色々と考えなくちゃいけないな。</p>


<p>Related posts:<ol><li><a href='http://takahashifumiki.com/literature/367/' rel='bookmark' title='Permanent Link: 「対談・日本語の危機とウェブ進化」について思ったこと'>「対談・日本語の危機とウェブ進化」について思ったこと</a></li>
<li><a href='http://takahashifumiki.com/literature/130/' rel='bookmark' title='Permanent Link: ディエゴ・マラーニ『通訳』を読んでやる気を出してみる。'>ディエゴ・マラーニ『通訳』を読んでやる気を出してみる。</a></li>
<li><a href='http://takahashifumiki.com/literature/55/' rel='bookmark' title='Permanent Link: クノー『はまむぎ』読解―その多層構造とジレンマ―'>クノー『はまむぎ』読解―その多層構造とジレンマ―</a></li>
</ol></p>]]></content:encoded>
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