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村上春樹風オープンソースライセンス

高橋文樹 高橋文樹

この投稿は 10年 前に公開されました。いまではもう無効になった内容を含んでいるかもしれないことをご了承ください。
By Aurelio A. Heckert(CC BY-SA 2.0)
By Aurelio A. Heckert(CC BY-SA 2.0)

誰とでも寝る女の子がいた。とてもさっぱりとした身なりの女の子で、昼間はパンツスーツを着て広報の仕事でもやっていそうだった。僕や僕の友人、そして多くの男達が彼女によっていっぱしの社会人になったし、僕たちはいまある自分の多くを彼女に負っているという事実を認識していた。実際のところ、彼女が誰と寝ているかということについて僕が気にかけることはなかったし、それは彼女自身の信条と呼ぶほかなかった。

自由を理解することはとても難しい。僕たちのように多かれ少なかれ不自由に行きている人間にとっては、なおさらのことだ。彼女はその困難をよく知っていた。ことが済むと、白いシーツの中に肘をついて寝物語のように滔々と話すのが常だった。たとえば、僕がはじめて彼女と過ごした夜、自由についての会話は次のようなものだった。

「私がお金儲けを企むようなおじさんと寝ることを不思議に思う?」

「不思議というよりも」と僕は答えた。「そういうことをしているって、いまはじめて知ったよ」

「ええ、そう。しているのよ」

「生活のためなら、いいんじゃないかな」

「本当にそう思っているなら、あなたは靴箱の中で一生過ごすといいわ」

「ごめん、気分を悪くした?」

「ええ、少しね。もしここがアメリカで、機関銃で武装したフェミニストが周りを取り囲んでいたら、あなたは蜂の巣になっているわ」

彼女は知的な笑みを浮かべると、枕元にある携帯電話に手を伸ばした。そして、メールかSMSを送った後、ポンと携帯を投げ捨てた。

「でもね、私はお金が欲しくてそういうおじさんと寝るわけじゃない。私を求めたおじさんが結果的にお金をくれるの。お金以外のものをくれる人だっているわ。住む場所や着るもの、学問だってね」

確かに、彼女は幾つもの人生を送っているように見えた。幾人もと、幾つもの人生を送っていたのだ。

「それに、私と寝るといっても、そのことが私の何かを変えるわけじゃない。何も減らないし、変わらないわ」

「そうだね。でも、子供ができたらどうするの?」

「そういうこともあるでしょうね。でも、その子供は私のように自由に生きさせるわ。いえ、自由に生きねばならないのよ」

「それは少し変じゃないかな。その子には不自由に生きる自由もあるわけだろう?」

「ないわ。自由に生きなければならないのよ」

彼女はそう言うと、ベッドから立ち上がり、脱ぎ散らかしていたジーンズに足を通した。そして、窓際のソファに深く腰を下ろし少し煙草を吸った。

「自由に生きるというのはとても厳しいのよ」

彼女の言う通りだった。向かいのビルから差す光で影になった彼女の顔は泣いているように見えた。そうした生き方はとても苛烈で、長く続かないような気がした。と同時に、いつまでも彼女はそのまま生き続けるような、矛盾した思いもあった。

後年、街中でばったりと彼女に遭遇した。僕は思わず声をかけたが、彼女があまりにも変わらないので、内心夢でも見ているような気分だった。彼女は僕を眺め、少し不思議そうな顔だった。それはそうだろう。僕のような人間が何人も彼女を通り過ぎていったはずだ。

「それは、母のことですね」

彼女はそう答えた。

「じゃあ、君は娘さん……彼女、そんな歳だったのかな」

「歳というほどでもないですけど」

「お母さんは元気?」

「ええ、元気です」

彼女は意味有りげに口元を隠すと、クスクスと笑いを漏らした。

「それで……君もやはり自由に生きているの? お母さんみたいに?」

「ええ、母の自由とは少し変わりましたけれど」

「そう、それはよかった」

僕はしばらく彼女を眺めた。彼女の横には僕より一回りほど下の白人男性が立っていて、僕と彼女のやり取りをにこやかに眺めていた。サンフランシスコあたりに住む背の高い知的な実業家といった風で、あらゆる事情を知っているタイプの笑顔を浮かべていた。

彼女と年若い紳士が去っていくのを眺めた後、僕はしばらく歩き続けた。大通りを抜け、人通りの少ない坂を滑るように降りていった。そして、チェーンのコーヒーショップに入り、大きなカップのアメリカンを頼んだ。彼女は世界を豊かにしている。いや、彼女のような生き方が世界を豊かにしているのだ。雨ざらしにしておいたのではないかというぐらい味の薄いコーヒーを飲みながら、僕はそんなことを思った。彼女になにかをしてあげたくなった。

羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

価格¥715

順位13,345位

村上 春樹

発行講談社

発売日2004 年 11 月 15 日

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